「何か可笑しくない?」 応接室のソファセットに向かい合って座りながら、レスタトが神妙な面持ちのままぽつりと呟いた。クローヴィスの病室を出た後でベアトリーチェとは別れ、部屋にはふたりきりだった 「僕もそれを思っていた」 頷く中条の表情も険しい。 クローヴィスの様子に可笑しな所は無かった。至って普通だった。それが逆に奇妙なのだ。普通でいられる事が普通じゃない。ルカと接触してクローヴィスが平然としていられる訳が無いのだ。 レスタトも中条もその事をよく判っている。ルカの関与を知りながら、それを彼の前で口にしなかったのはその為だ。 「もしかしたら、喋りたがらないんじゃなくて、憶えていないのかもしれない」 やがて中条は重々しく言った。 「?」 レスタトがこれ以上無い程に眉を寄せて彼を見る。まさか記憶喪失だとでも言うのか。 問い質す視線を浴び、中条は物憂げに顔を上げた。 「逆行性健忘症」 その名を口にするのが憚られて仕方が無いという様に。 「何だそれ」 「稀にあるんだよ、余りのショックによって脳がその記憶を封じてしまう事が」 そうしないと精神が崩壊してしまうから。 極度の恐怖やショックによって引き起こされる一種の記憶障害。記憶喪失と異なるのは、原因が外傷ではなく精神的なものだという点と、失われるのが一部分だという点だ。恐らくルカと接触した前後の記憶だけが欠落しているのだろう。 レスタトの顔から血の気が引いた。記憶に支障を来たす程の衝撃。それはそれで納得がいく。ルカとの再逢が彼にどれ程の苦痛をもたらすかは想像に難くないからだ。 「一時的なものだとは思うけれどね」 言うべき言葉を失くして愕然としているレスタトに、中条が慰める様に言う。だが、最初の衝撃から幾らか立ち直ってくると、別の思いがレスタトの頭を掠めた。 憶えていないのなら、いっそ忘れたままでいる方がいいのではないか。思い出してしまったら、クローヴィスはきっとまた傷付く。 「一時的って?」 「さぁ。確かな事は何も言えない。何かの拍子に思い出すかもしれない」 肩を竦めながら。精一杯前向きに言ったのであろう言葉が残酷に響く。 病院の天井は嫌いだ。嫌な事ばかり思い出す。 以前にもこの景色を見ていた。同じではないけれど、よく似た景色を。 四年前、あの事件の後でだ。 ベッドに横になったまま、相変わらずぼんやりと天井を眺めている内に、知らず思考はそちらに流れていく。 あの時君に誓ったね。この手で必ずケリをつけると。 そう、こんな所で立ち止まってはいられない。感傷に浸っている余地など無い。 クローヴィスは溜め息をついて、片腕を瞼の上に乗せた。ベアトリーチェの言葉が頭の片隅に引っ掛かっていた。 俺は何処へ行こうとしたのだろう。実際何処へ向かったのだろう。そして何処で倒れたのだろう。 一向に思い出せない。レスタトは一体何処で俺を見つけた? もう一度はじめから記憶を辿ってみる。 俺はピアノを弾いていて、その後で刺されて、ベアトリーチェを殴って外へ出て、それで…。 不意に彼は奇妙な心臓の高鳴りを感じた。身体中の神経がざわめく。とても嫌な感じだ。 理由が判らずに彼は戸惑う。恐らく、全ての記憶を留めていてそれを吐き出したがっている身体と、抑え込もうとする脳がせめぎ合っていたのだろう。 やがて彼はひとつの結論に辿り着く。 俺は何処へも行けなかった。 断片的に脳裏に浮かび上がった記憶の残像が、繋がりはじめる。割れた硝子の破片の様な残像は、次第にひとつの輪郭を形成していった。 違う。あそこにいたのはベアトリーチェじゃない。レスタトでもない。 あそこにいたのは……ルカだ。 そうだ、あの夜、あの場所で、俺はルカに逢ってしまったのだ。 そしてルカの腕の中で気を失った。 おやすみ。 彼のその言葉を最後に一旦記憶が途切れ、次に気が付いた時にはルカの部屋だった。 ■ ■ ■ 聴いた事のある声。聴いた事のある歌。聴いた事のある音。 見た事のある後ろ姿。 あぁ、この声はリズの声で、この音は俺のピアノだ。 そう認識した俺は、気付けばピアノ椅子に座って大きな劇場でピアノを弾いていた。鍵盤に宛てがった指先が伝える感触は現実味に溢れていて、全部悪い夢だったのだと思った。 そう、悲劇なんて起こるはずが無い。俺の手は観客を満足させられるだけの音を奏でられるし、リズはこうして俺の眼の前で綺麗なアルトを響かせている。 きっと、このままいつもみたいに何事も無く演奏は終って、割れる程の歓声に包まれて…。 早く君の幸せそうな顔が見たい。俺の中の君の記憶は、最後の泣き顔を留めたまま止まってしまっているから。 君の好きなこの曲が終ったら、きっと振り向いて笑ってくれる。 君の好きなこの曲が…。 あれ?君の声が聴こえない。 君が見えない。 リズ?何処にいるの? >>Next |