三 白い狂気


 静寂は唐突に均衡を崩した。
 何も聞こえないと思っていた世界に小さな音が響き、それは覚醒を促す様に脳を刺激した。意思とは関係無しに身体の何処かがぴくりと反応する。意識と呼べる程のものは未だ無くて、外部からの刺激を知覚できるだけの五感も思考回路も眠ったままだった。
 受け入れる事しかできない身体に、次に一方的に与えられたのは光。闇に包まれていた世界が一変して赤く塗り替えられる。
 クローヴィスは無意識の内に顔を顰め、そして瞼を震わせて漸く覚醒した。狭い視界に映ったのは、果てしなく広がる白。ぼんやりと眺めていると、次第に焦点が定まり、果てしないと思っていたそれが、四角く隅を断ち切られた天井だと気付く。
 あぁ、未だ生きている。
 漠然とそう思った。今ではもう、全ての感覚が自分の身体に息づいているのが判る。ただ身体を動かす事も、眼球を動かす事さえもが酷く億劫で、彼は少しの間そのままそうしていた。
 不意にひょいと白が遮られた。見知った顔が無遠慮に視界に侵入してくる。中条だった。
「クローヴィス?」
 彼はクローヴィスの顔を覗き込む様にして言った。
「大丈夫かい?」
 頷く代わりに、ゆっくりと瞬きをする。
 あぁ、此処は中条の病院か。
 中条は裏社会にも通じているクローヴィスとは馴染みの医者で、そこで非合法的な仕事を請け負って得た莫大な報酬でこの病院を建て、表向きは総合病院の院長をしている。所謂闇医者ではなく、正真正銘の医師免許も持っており、病院自体も普通のものだが、あの死体の偽装の様に何かあれば力を貸してくれる存在だった。
「俺は……」
 渇いた喉が癒着してしまったかの様に、上手く声が出ない。
「丸三日眠っていたんだよ。一時はどうなる事かと思った」
 中条の言葉を耳に入れながら、クローヴィスは朧げな記憶を辿った。思い起こすのに時間が掛かる。
 ピアノ…。
 あぁそうだ、俺はピアノを弾いていて、その後で刺されたのだった。ベアトリーチェがいて、俺は彼女を殴って外へ出て、それで…。
「どうして此処に…?」
 尋ねるというよりは自分に問い掛ける様な響きで彼は呟いた。
「レスタトが此処へ運んできた」
 点滴の速度を調整しながら中条が答える。
 そう、レスタトが…。
「呼んで来ようか?」
 中条の申し出に、クローヴィスは小さく首を振った。穏やかな声は決して不快ではなかったが、未だ頭が少しぼんやりしていて、できれば誰とも話したくなかった。
 そんな彼の様子を察したのか、中条はカルテを取り上げ、出て行く態勢に入った。
「何処か痛む所は?」
 見下ろしながら、問う。クローヴィスはまた首を振った。
「眠りたい」
 重い瞼を引き下ろす。中条は軽く頷いた。
「じゃあ、何かあったらナースコールするといい」
 静かにドアが閉まって、中条の足音が遠ざかっていく。再び静寂。
 あの男は誰だったのだろう。一体誰が、何の目的で俺を殺そうとしているのだろう。
 判らない。何も。
 判るのは、命拾いしてしまった以上、これが未だ続くかもしれないという事だけだ。

 クローヴィスの病室を後にした中条は、その足でロビーへ向かった。待ち人は、近付いてくる人影に直ぐに気付いて顔を上げた。
「彼の意識が戻ったよ」
「本当か!?」
 レスタトは待ち望んでいた言葉に安堵の表情を浮かべ、大きく息を吐きながら椅子にもたれた。彼はクローヴィスを此処に運んでからというもの、毎日様子を見に訪れていた。彼の顔にも疲れの色が見え隠れしている。
 中条は彼の隣に腰を下ろした。その横顔を、レスタトが少しだけ険しい表情で見つめる。
「話した?」
「少しだけね」
 中条は浮かない顔で答える。
「で、どうだった?」
 レスタトの問いに、更に表情を曇らせ、眼を伏せて首を振る。
「何も喋ろうとしない」
「そっか…」
 レスタトは軽く溜め息をつき、額に手を宛てて黙り込んだ。
 あんな事があったのだ。喋りたがらなくても無理は無いか。



 考え事をしている内にいつの間にか眠ってしまったらしく、次に眼が醒めた時、病室の中には中条とレスタトがいた。クローヴィスは身じろぎしようとして腹の痛みに顔を顰め、吐息の様な微かな声を洩らした。よく見ると後ろにベアトリーチェもいて、三人は殆ど同時に振り返った。
「お、起きたか」
 真っ先に声を掛けてきたのはレスタトだった。彼はベッドに近付いてきて、笑顔でクローヴィスを見下ろした。起き上がる事は諦めて、大人しくそんな彼を見上げる。先刻よりは幾分気分が良くなっていた。
「全く、心配させんなよ。無茶ばっかしやがって」
 笑ってはいたが、レスタトの顔色は余り良くはない。随分と気を揉ませてしまった様だと思って、クローヴィスはすまなそうに苦笑した。
「本当よ。一体何を考えてるのよ」
 怒った様な口調のベアトリーチェがレスタトの肩越しに顔を出す。殴った事を思い出し、クローヴィスは居心地悪そうに身体を揺らした。
「ごめん」
 呟くと、彼女は全くもう、と言って腰に手を宛ててみせたが、最後には笑ってくれた。
「お前が運んでくれたって?」
 中条に手伝って貰いながらベッドを起こし、そこにもたれる様に座り直して、クローヴィスは再びレスタトを見上げた。ほんの僅かにレスタトの瞳が揺れたけれど、それはクローヴィスが気に留める程のものではなかった。
「あぁ、彼女から連絡を貰った」
 レスタトは身振りでベアトリーチェを指す。
「びっくりしたぞ、お前が刺されたと聞かされた時には。しかもそのお前がいなくなったなんて言うんだからな」
「悪かったよ。でもよくレスタトに連絡取れたね?」
 レスタトとベアトリーチェの間に面識は無い。首を傾げるクローヴィスに、ベアトリーチェは得意げに眉を上げた。
「わたしを誰だと思ってるのよ。それ位訳無いわ」
 クローヴィスは納得した様に頷き、それ以上追及しなかった。
「で、わたしを殴り倒してまで何処へ行こうとしてた訳?」
 当然といえば当然の質問だった。だが、クローヴィスは意表を突かれた様に押し黙って答えなかった。
 いや、答えられなかったのだ。
 そういえば俺は何処へ向かおうとしていたのだろう。
 そのあたりの記憶が不鮮明で、よく思い出せない。救いを求める様に振り仰いだレスタトは、眉間に皺を寄せ、思い詰めた表情で床を見つめていた。


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