黴臭い水車小屋の隅で、膝を抱えて蹲る。
 陽が落ちたら此処を出よう。此処を出て、この街を出て、何処か遠くへ。誰も自分を知らない、誰にも見咎められる事のない地へ。
 何という事は無い。今までだってずっとそうしてきた。
『必ず迎えに行くから』
 彼は言葉を違える事はないだろう。あの約束の通りに自分を迎えにくるだろう。
 そうしてもう此処にはいないと知ったら、彼はどうするだろうか。
 リオは額を膝に押し付けたまま、ぎゅっと膝を抱く。
 もう逢わないと決めたのだ。
 はじめの内は嘆くかもしれない。けれどきっと、時が解決してくれる。いつかちゃんと過去になる。
 それでいいのだ。それが最善の道なのだ。
『必ず迎えに行くから』
 それなのに、どうして彼の声が耳から離れないのだろう。
 自分で言ったはずではないか。彼は血液の代わりだと。ただの精液のパトロンだと。
 最後に触れた彼のくちびると掌の感触が、刻み付けられた刻印の様に肌から消えてくれない。
「シーエ……」
 零れ落ちた声は行く宛ても無く。

「リオ」
 呼ばれてふと顔を上げる。あたりは真っ暗で、シーエの姿はおろか小屋の壁さえ見えない。いつの間に陽が暮れたのだろうか。
「リオ、戻っておくれ」
「シー…エ…」
 手を伸ばして気付いた。
 こんなにも、彼を求めていると。
 伸ばした手は何の手応えも得る事はできず、虚しく空を掻く。何にも触れられなかった指先が酷く冷たい。
 こうして夢に現れたのは、彼ではなく、自分が求めたからだ。
 一緒にいれば彼を傷付けると判っているのに、こんなにも、こんなにも、離れている事が耐え難い。
 司祭を辞そうと言って、肌身離さず身に付けていたロザリオを惜しげも無く外したシーエ。
 つまり彼は、全てを投げ捨てても構わないと、言ってくれたのだ。
 シーエに逢いたい。
 シーエの所に行きたい。
 もう離れないと言って、うんと強く抱き締めたい。
『汝の望みのままに』
 暗闇の中、シーエのものではない声が言った。聴いた事のない声だった。
 生きていていいのだと言われた気がした。
 愛していいのだと。
 愛されていいのだと。
 えもいわれぬ深い響きを持った、慈愛に満ちた声に後押しされ、リオは滲んだ涙を拭った。
 還ろう。
 シーエの所へ還ろう。
 そして、シーエと共に生きよう。
 死ぬまで傍にいて、最後は静かに見送るのだ。
 そう、シーエの言う通り、自分は恐れていたのだ。残される事を、過剰なまでに。ヴァンパイアである事を言い訳にして。
 そうじゃない。愛する者を失うのが怖いのは、人間もヴァンパイアも同じだ。
 誰もが喪失の恐怖を抱えながら、それでもその恐怖と闘い、愛するのだ。
 陽が落ちたら、此処を出よう。此処を出て、彼の元へ。

 カン、カン、カン―――
 けたたましい鐘の音でリオは飛び起きた。一瞬、またヴァンパイアが出たのかと思った彼だったが、陽は未だ暮れきってはいない。一体何事かと訝しむ彼の耳に、鐘を打ち鳴らしながら叫ぶ、男の野太い声が届いた。
「火事だー!! 火事だー!!」
 リオは細心の注意を払って小屋の扉を細く開け、外を窺い見た。途端に、眼が眩む。宵闇を背負った鮮やかな夕焼けは、その大半を山の端に隠しながらも、灼けつく様な光量を放っている。瞼で遮る様に眼を細めた彼は、視界の端でゆらめく、一層鮮やかな燃える様な赤を見た。
「………!!」
 彼は息を飲んだ。燃える様な、ではない。立ち並ぶ民家の向こうに、森を覆う様に炎と黒い煙が上がっていた。
 教会の方角が燃えている。
「シーエ…!!」
 リオは叫び、勢いよく扉を開け放って小屋から飛び出した。
 どうして……。
森を見上げ、茫然と立ち尽くす。陽に曝された肌が赤く爛れる。
「シーエ!!」
 彼は日光も人目も顧みずに、教会に向かって駆け出した。
 大通りは大変な騒ぎだった。火消しに加勢しようと教会に走る者、逃げ惑う者、怯えて立ち竦む者、母親とはぐれたのか道端で泣きじゃくる子供、泣き叫ぶ女。そんな状況だったから、誰もリオを見咎める者はなかった。
 人の波を押し退け、掻い潜りながら、彼はひたすらに教会を目指す。
 早く、一刻も早く。
 心臓が痛いくらいに早鐘を打っているのに、広場はごった返し、まるでわざとリオの足を止めようとするかの様に四方を塞ぐ。
 もまれた彼は隣にいた男に突き飛ばされ、反対側の人物にぶつかった。きゃっと悲鳴が上がったが、よろめいた身体を立て直せずに、そのままふたりは縺れる様にして転がった。持ち前の身のこなしで辛うじて押し潰す事だけは避けたが、華奢な女性は派手に尻餅をついていた。だが、ぶつかっておいて申し訳無いが、今は構ってはいられない。起き上がったリオは、謝罪をして立ち去ろうと手を差し伸べた。
「あら…貴方……」
 女性が驚いた様な声を出した。思わず顔を上げると、見憶えのあるあどけない顔があった。
「君は……クレア…」
 いつか助けた娼婦の少女だった。呟いたリオに、彼女は引き攣った様な、怪訝な視線を注ぐ。
「貴方一体どうしたの、それ…」
「え…?」
「酷い火傷…」
 彼女は手を伸ばしかけたものの、触れていいものかと躊躇う様に、指先を空中に彷徨わせる。言われてリオははじめて痛みを知覚した。肌が痛い。見下ろせば、陽に曝された手の甲が赤く爛れていた。顔と首筋も同じ様に爛れているのだろう。
「何でもないよ」
 彼は逃げる様に顔を俯け、袖口で手を隠す。直ぐ横を通り掛かった男が彼の背中を蹴っ飛ばしていった。こんな所にふたりして座り込んでいては踏み潰されてしまうと、彼はクレアの腕を取って立ち上がらせ、彼女を庇いながら通りの端まで移動する。
「それより、一体何が起こっている?」
 彼は些か乱暴にクレアの肩を掴み、眉を寄せた険しい表情で早口に問い詰めた。途端に、彼女も泣き出しそうに顔を歪めた。
「一部の人たちが、神父さまはヴァンパイアだ…って、言って…それで…」
 彼女は声を詰まらせ、込み上げる恐怖を押し殺す様にくちびるを震わせる。
「そんな…!?」
 なんという事だ。
 それで教会に火を放ったというのか?
 ひりひりと熱を持っていた全身からすっと血の気が引いた。彼は血相を変えて肩越しに丘の上を振り仰いだ。漸く日の落ちた濃紺の稜線を、不気味な赤は勢いを増して染め上げている。
「シーエ…!!」
 リオは戦慄く彼女を置き去りにして再び走り出した。彼女が何か叫んだが、もう彼の耳には届かなかった。
 あぁ、自分の所為だ。全部自分の所為だ。
 シーエ…。
 どうか無事で。

 坂道を登りきると、そこには絶望的な光景が広がっていた。美しかったステンドグラスは粉々に吹き飛び、窓という窓から火柱が吹き上がっている。火を消し止めようと駆けつけたらしい男たちは最早為す術を失くして茫然と教会を見上げていた。
 リオはその中にシーエの姿を捜す。彼の事だ、危険は察知していたはずだ。火の手が回る前に脱出しているのではないか。
 そうであってくれ。
 けれど、月の光の様にたおやかな銀糸の髪は何処にも見当たらなくて。
「シーエっ!!」
 炎の爆ぜる音と屋根の崩れ落ちる轟音に負けじと、声の限りに叫ぶ。それでも、返る声は無い。リオは隣にいた男の腕を掴んで揺さぶった。
「シーエ……シーエは…!?」
 呆けた様にただ炎を見上げていた男ははっと我に返ってリオを見下ろし、苦々しげにそっと眼を伏せた。彼の腕を掴んでいたリオの手が、力無くはらりと落ちた。吐く息が震える。
「嘘だ……」
 言葉よりも如実に語る彼の表情から、教会に視線を移す。
「シーエっ!!」
「あっ、おい坊主!!」
 駆け出したリオの背中を男の逞しい腕が追う。爪の先が裾を捕える。リオはそれを振り払い、燃え盛る炎の中に飛び込んだ。
 熱い。ただでさえ陽に灼かれた肌は、無数の針を刺されたかの様に激しく痛む。眼を開けているのもつらい。シーエの名を叫ぼうとした彼は強かに熱気を吸い込み、激しく噎せた。喉が灼ける様だ。
 降り注ぐ火の粉から腕で頭を庇いながら歩を進める。通路の途中でアンナが倒れていた。事切れているのは明らかだった。
「ごめん…」
 恐怖を映したままの両眼をそっと閉じてやる。振り切る様に立ち上がり、再び歩き出す。
 そうしてやがて、まるで主の前にひれ伏す様に横倒る、捜し求めた銀色を見つけた。
「シーエ!!」
 リオは潰れた喉で叫び、瓦礫を飛び越えて彼の元に駆け寄った。





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