それから半刻程前。
「俺は確かに見たんだ!! ヴァンパイアが神父さまを襲うのを!!」
 広場で痩せた中年の男ががなり立てていた。煌々と松明の焚かれた広場は昼間の様に明るく、騒ぎを聞きつけ、箒や鉄パイプを手に集まった男衆で溢れ返っている。
「嘘じゃねぇって!! この眼で確かに見たんだ!!」
「だけどよぉ、ヴァンパイアが教会に入れる訳ねぇだろうがよ」
「んな事知るかよ!! 俺は確かに見たんだ!! 金色の眼のヴァンパイアが神父さまに襲い掛かるのを!! あれはとても人間の眼じゃなかった!!」
 男は教会の窓越しに見た光景を思い出し、恐ろしさに身震いした。祭壇に設えられた蝋燭だけが灯る薄暗い聖堂の中で、異様な輝きを放っていた双眸。手首に噛み付かれ、苦痛に歪んだシーエ神父の表情。
「しかし、おめぇ、何だってそんな時間に教会の傍なんぞほっつき歩いてたんだよ」
「そ、そりゃおめぇ…俺は根無し草だからよ、一晩だけでも泊めて貰えねぇかと思ってよ…」
「そんで、神父さまはどうなったんだ? こ、殺され……」
「判らねぇ。恐ろしくて逃げ出しちまったからよ…」
 不意に、呻き声に似た溜め息が何処からともなく洩れた。
「もう終りだ…。ハンターさまも殺されちまった。この街はもう終りだ。神に見捨てられちまったんだ…」
「おい、おめぇ、滅多な事言うもんでねぇ!!」
 両手で頭を抱えて震える男を、傍にいた初老の男が咎める様に怒鳴る。
「確かめに行こう。本当に神父さまが殺されたのか」
 鉈の様な大振りの包丁を担いだ、ガタイのいい男盛りといった風体の男が言った。肉屋の店主だ。
「未だヴァンパイアがいたらどうすんべ」
「陽が昇るまで待つ。陽が昇ればヴァンパイアは外に出られない」

 うららかな日射しの降り注ぐ閑静な砂利道を、まるで進軍する兵士の様に、武器を手にした男たちが突き進む。皆一様に口を閉ざし、緊張した面持ちで、重苦しい空気が流れる。木々の間から、屋根の上の十字架が見えてくる。

「おや、来たようですね」
 聖堂に腰を下ろしていたシーエがふと言った。彼は法衣を纏い、一度は外したロザリオを首に掛けていた。
「シーエ様…」
 傍らに座るシスターが不安げに彼を見上げる。彼はにこりと微笑みかける。
「大丈夫ですよ、アンナ。さぁ、出迎えましょう」
 彼は立ち上がり、正面の主に深々と頭を下げて、中央の通路を進んだ。美しい髪を靡かせて颯爽と歩む背中は何処か潔く、堂々としていて頼もしい。
 彼が扉を開くと、街中の男がひとり残らず集まったかの様な一団が、教会の門を入ってくる所だった。男たちはシーエの姿を認めるなり、神父さま、と口々に叫んだ。或る者はまるで幽霊でも見たかの様に、或る者は恐怖に引き攣った悲鳴の様な声で、また或る者はさながら迷子の子供が母親を見つけた様な安堵の表情で。
 シーエはゆっくりと彼らを見渡し、相変わらず穏やかに微笑んだ。
「良からぬ噂が流れている事は聞き及んでいます」
 しかし、男たちはシーエの姿を見、声を聞いても、未だ俄かには信じられないという様に二の句を継げずにいる。
「神父さま…本当に御無事で……?」
 ひとつの塊の様に微動だにしないまま、彼らの内の誰かが恐る恐るといった調子で言った。
「本当にも何も、今そなたたちが眼にし、耳にしているものが唯一の真実ではないのですか」
 シーエは飄々とした仕草で首を傾ける。
「う、嘘だ!!」
 唐突に、痩せたひとりの男が叫んで踊り出てきた。
「嘘だ!! お、俺は確かに見たんだ!!」
 彼は転がる様にシーエの前に駆けてきて、血走った、錯乱した眼でシーエを見上げた。
「ヴァンパイアが神父さまの此処に……」
 そう言って、突然シーエの左手を掴み、キャソックの袖を捲り上げる。
「ひぃっ…!!」
 袖の下に現れた白い包帯に、男は悲鳴を上げて尻餅をつき、手脚をばたつかせて後ずさった。安堵しかけていた集団の中からもざわめきが巻き起こる。後方でなりゆきを見守っていたアンナさえもが息を飲んだ。
「あぁ、これは今朝庭の掃除をしていて引っ掛けましてね」
「そんなでたらめ信じられるか!! おい、皆、こいつはもう神父さまじゃねぇ、ヴァンパイアになっちまったんだ!!」
 男が喚く。男衆たちのざわめきは半分が彼に同調して恐慌に陥り、半分はどちらを信じいいのか判らず戸惑っているといった様子だった。下を向いていた武器の幾つかがシーエに向けられる。
「何という事を言うの!!」
 激昂したアンナが金切り声を上げる。
「お前も同じなんだろう!!」
 指を差され、彼女は怒りの余りに最早言葉さえ失くし、わなわなと震えるばかりだった。シーエは彼女を背中に庇い、すっと眼を細める様にして険しい顔をした。
「ならば何故、私たちは此処にいられるのでしょう」
 静かな声は、燦々と日射しの降り注ぐ庭に凛と響き渡った。一瞬、喧騒がやむ。
「神父さまの仰る通りだ。皆の衆、眼を醒ませ」
 肉屋の店主だった。
 その一声で、事態は取り敢えずの収束を迎えた。摘みきれぬ不穏の芽を残したまま。

「疑心暗鬼というのは本当に厄介な悪鬼だね」
 静けさを取り戻した聖堂の中、長椅子にもたれてシーエが呟いた。
「きっと、今に誤解も解けますわ」
 静けさと共に彼女の落ち着きも舞い戻り、アンナはふわりと笑った。胸の前で両手を組み、そっと眼を閉じる。
「彼らに主の御加護があらん事を」
「アンナ、そなたは本当に良い子だね」
 シーエもつられて微笑む。あれだけの屈辱的な仕打ちを受けても、彼らを恨んだり憎んだりしない彼女の大らかさと寛大さに、荒れた心が慰められる様だった。
「それから、シーエ様にも」
 アンナは照れた様にはにかむ。
「そなたにも、主の御心が届かん事を」



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