それから暫くは何事も無い日々が続いた。たまに見掛ける事や擦れ違う事はあっても、ただそれだけだ。挨拶をする事もなければ言葉を交わす事もない。時折、彼は未だあんな行為を続けているのだろうかと気に掛かりはしたが、セラフィムが進んで彼と接触する事はなかった。
 そんな或る日の事だった。セラフィムは廊下でばったり彼と出食わした。ヴィネルークはいつもの様に素知らぬ様子で通り過ぎようとした。だが、その時ばかりは見過ごす事ができなかった。眼が片方眼帯で覆われていたからだ。
「どうしたんだ、お前、それ!!」
 肩を掴んで引き止め、所構わず怒鳴りつける。ヴィネルークは振り向いて、不愉快そうな視線を彼に向けた。
「貴方には関係無いでしょう? ちょっとした事故ですよ。放っといて下さい」
 彼は片に乗せられた手を振り払おうとしたが、セラフィムは放さなかった。
「お前、未だあんな事してるのか」
 セラフィムの声が怒気を孕む。
「うるさいな。僕に説教するつもり? たった一度僕を抱いたくらいで調子に乗らないで」
 ヴィネルークは瞳に怒りを滲ませて彼を睨んだ。しかしセラフィムも怯まない。
「見せてみろ」
 嫌がるヴィネルークを押さえつけ、眼帯を剥ぎ取る。次の瞬間、セラフィムは息を飲んで戦慄した。隠れていた左の白眼が真っ赤になっている。眼の上には赤い筋も残っていた。鞭か何かが当たって眼球の血管が切れたのだろう。
「お前……誰がこんな事…!!」
「だから事故だって言ってるだろ」
 彼はセラフィムの手から眼帯をひったくると、それを嵌め直し、セラフィムを置き去りにして足早に立ち去った。

 苛々する。
 追ってはこない事を確かめて、ヴィネルークは幾らか行った所で歩調を緩めたけれど、苛立ちは収まらなかった。自分の腕を掴み、そこに爪を立ててどうにか感情を鎮めようとする。
 実際あれは本当にアクシデントだった。普段は決して、顔や首や手といった人目に触れる部分には痕跡を残さない様にしている。ほんの少し羽目を外しすぎたのだ。それで振り下ろされた鞭が運悪く眼に当たった。

 夜になっても苛立ちは収まらなかった。無性に痛みが欲しくなる。堪らなく、欲しくなる。
 彼はアランを呼ぶ。けれど待ちきれなくて、ヴィネルークは怒りに任せて衝動的に洗面台の鏡を叩き割ってしまった。散らばる破片に魅せられる。ひとつを手に取り、腕に滑らせる。
 暫くして、アランがやって来た。
「何してんの?」
 バスルームを覗き込んでアランは言った。
「何でも無いよ。遅い」
 ヴィネルークは不機嫌な声で返す。
 アランはいつも通り彼を裸にして、両手を縛り上げた。ロープの端はベッドの柱に繋いでおく。
「お前も懲りないね。何ならこの間のあいつも呼んで3Pってのはどうだ?」
「うるさいよ」
「随分とご機嫌斜めだな。あいつに迫って手酷く振られでもしたのか?」
「うるさいってば。早く気持ちよくしてよ」
 早く、早く、早く。焦りにも似た欲望と疼きが身体の中で渦巻く。アランは口の中で笑って、彼の剥き出しの性器を掴み、握り締めた。そしてそこに細い紐を巻き付けていき、根元で結わえる。刺激を受けたペニスは早くも興奮の兆しを見せ、少しずつ紐が食い込んでいく。
 そうしておいて、アランはヴィネルークの顎を掬って自分の方を向かせた。赤い眼が彼を見上げる。
「酷い顔だな。あいつにやられたのか?」
「黙れ。これ以上あいつの話をしたら殺してやる」
「その格好でか? そりゃ見物だな」
 アランは鼻で笑ってペニスの先端を指で弾いた。ヴィネルークは堪らず微かに呻いた。欲情すればする程締め付けられていく。
「そういやあっちにいいものがあったな」
 アランは急に立ち上がり、バスルームに消える。戻ってきた彼は鏡の破片を手にしていた。
「消えない傷が欲しいんだろ? 俺が刻み込んでやるよ」
 彼はヴィネルークの身体をひっくり返し、腰の上に馬乗りになると、尖った破片を背中に押し宛てた。ぷつりと先端が沈む。裂けた皮膚の上に、零れた血が玉をつくる。彼は力を籠めて硝子片を横に引いた。
「あぁぁっ…」
 ヴィネルークは弓の様に背中を反らせ、嬌声を上げた。深く抉られた背中から鮮血が溢れる。アランは今度はうなじの下に刃を宛て、縦に引き裂いた。赤いいびつな十字架が背中に浮かび上がる。
「お前にはぴったりだろ、文字通り十字架を背負うってな」
 アランの嗜虐的な笑み。背中に走る鋭い痛みと下半身の鈍い痛み。そこから産み出されるのは震える程の快楽。
 でも、未だ足りない。全然満たされない。
 アランが尻の間に押し入ってくる。
「ん…あぁっ……」
 後ろから激しく突き上げられる。果ててしまいそうになるが、前を封じられているので達する事ができない。
「気持ちいいか?」
 アランの声も切迫している。
「未だだよ。もっと、もっと…」
 ヴィネルークは息も絶え絶えに言う。解放する事を許されず内部に籠る熱と、冷えたままの心。均衡を失う。
 程無くしてアランはヴィネルークの中に射精した。苦痛の中に彼を置き去りにしたままで。ヴィネルークはびくびくと身体を痙攣させる。
「ん…ぅ……」
「苦しいか? 気持ちいいか? イきたいか?」
 苦痛と快楽に悶えるヴィネルークの表情に興奮を煽られたアランが、背後から耳元にくちびるを寄せて囁く。背中一面を覆う血が、ぬるりと肌を滑る。ヴィネルークは上半身を反転させ、拘束された両手で上に乗る彼の胸倉を掴んだ。
「未だだよ。こんなんじゃ全然足りない。ねぇ、アラン。もっとだよ。もっと!!」
 せがむ内に興奮が増したのか、ヴィネルークはまるで掴み掛かる様にアランの身体を揺さぶった。殆ど癇癪を起こした子供の様だった。
「もっと責め立てて!! もっと滅茶苦茶にして!! ねぇってば!!」
 暴れるヴィネルーク。その常軌を逸した激しさに、アランは恐怖を憶えて身震いした。
「お前今日どうしたんだよ…」
 たじろぐアランの頬に、ヴィネルークの肘が直撃した。彼は吹っ飛び、ベッドから転がり落ちそうになった。
「いってぇな、お前!!」
 彼はかっとなって、体勢を立て直すと我を忘れてヴィネルークに飛び掛かった。首を押さえつけ、両手で絞め上げる。
「うっ…」
 ヴィネルークが呻く。だが、顔を歪ませたのはほんの一瞬だけで、彼は直ぐに眼を細めて笑みを浮かべた。苦痛に酔いしれる様な恍惚とした笑み。
「そう、そうだよ、アラン。もっと僕を苦しめて」
 痛みが欲しいんだ。
 苦痛が欲しい。快楽が欲しい。
 どうしようも無く渇くんだ。気が狂いそうだよ。誰か、僕を満たしてよ。誰でもいい。この渇きを埋めて。



 アランとの情事から少し経って、ヴィネルークは自分の身に起こった異変に気付きはじめた。
 一向に満たされない。オーガズムが失われてしまったのではないかと思う程だった。誰に自分を抱かせても、憂いと渇きが癒えない。
 同じ頃、セラフィムも彼の様子が可笑しい事を薄々感じはじめていた。たまに遠目に見掛ける彼は常に何かに苛立っており、顔色は悪く、以前は巧みに隠していた狂気が隠しきれずに瞳の奥に滲んでいる。彼の本性を知らぬ者なら別人だと思うのではないかというくらいに鬼気迫る形相をしていた。
「どうしたんだ、お前。最近顔色悪いぞ」
 彼には関わるまいとしていたセラフィムだったが、見るに見兼ねて遂に声を掛けた。ヴィネルークは蔑むような眼で彼を見上げた。
「また説教? 僕を監視するのはやめてよね」
「別に監視なんかしてないさ。俺は…」
「だったらいちいち僕に干渉しないでよ!!」
 セラフィムの言葉を遮って叫ぶ。
 僕を抱いてくれない癖に。僕を痛めつけてくれない癖に。説教は沢山だ。欲しいものは何も与えてくれないのなら、お前になんか用は無い。
「聞けよ、ヴィネルーク」
「うるさい!! もう放っといてよ!!」
「待てって!!」
 引き止めようと手を伸ばす。
 間に合わなかった。肩を怒らせて歩くヴィネルークの身体が不意にゆらめいた。ぐらりと頭が揺れたかと思うと、力の抜けた身体が崩れ落ちていく。
「おい!!」
 セラフィムには何が起こったのか判らなかった。慌てて駆け寄り、抱き起こす。意識が無い。身体が熱い。
「おい!! しっかりしろ!!」
 反応は無かった。ヴィネルークは瞼を下ろしたまま、熱っぽい吐息を苦しげに吐き出すだけだった。額に手を宛てる。凄い熱だ。

 夜半に一度、彼は眼を醒ました。熱にうかされた眼を虚ろに開ける。
「此処……何処……」
 乾いたくちびるが、掠れた細い声を紡ぐ。焦点の定まらない視線は天井を彷徨っている。
「お前の部屋だ」
「僕は……」
「廊下でいきなりぶっ倒れたんだ」
 セラフィムが言うと、漸く思い出したのか、再び眼を閉じたヴィネルークの頬を微かな笑みが掠めた。
「お前、馬鹿だろ。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ」
 セラフィムは呆れと非難の混じった溜め息をついた。
「何が?」
 ヴィネルークが億劫そうにくちびるを動かす。自嘲の笑みが零れる。
 だって誰も僕を満たしてくれないんだもの。仕方無いじゃない。自分でもどうしたらいいか判らない程渇くんだもの。
「何が、じゃない。何なんだ、あの背中の傷は。化膿するまで放っておくなんて」
 セラフィムは怒った様に言った。
 彼は気を失って倒れたヴィネルークを部屋へ運び、酷く汗をかいていたから服を脱がせてベッドに寝かせようとした。最早多少の事では動じなくなっていたが、流石に背中を見て眼を疑った。白い肌に深く刻まれた赤い十字架。あの十字の傷がろくに手当てもされないまま放置され、膿んで熱を持ち、それで発熱したのだ。この所顔色が悪かったのもその所為だ。
 ヴィネルークは驚きの余り暫し言葉を返せなかった。まさかあの傷がそんな事になっていたとは気付きもしなかった。
「点滴打っといたから、熱はその内下がるだろ。暫く大人しく寝てろ。明日になったらこれを飲め」
 セラフィムは彼の枕元に薬と水の入ったグラスを置く。
「何これ」
「抗生物質だよ」
「どうしたの、こんなもの」
「医務室からくすねてきたに決まってんだろ」
 セラフィムが相変わらず不機嫌な声で答えると、ヴィネルークは声を立てて笑った。
「お前にそんな事ができるなんてね。お堅い優等生のお前に」
「優等生はお前だろ。猫被りやがって」
「処世術と言って欲しいね」
「何でもいいよ。いいからさっさと寝ろ」
 温かい手が降りてきて、くしゃくしゃっと頭を撫でる。髪に絡んだ指先が離れていく。
「もう行くの?」
 立ち上がった彼の背中を、いつに無く不安そうな声が追い掛けた。セラフィムが振り返る。
「いたって邪魔なだけだろ。明日の朝また様子見に来るよ」
「行かないで。傍にいて」
 口にしてしまってから、ヴィネルークは自分で驚いた。
 何を言っているんだ、僕は。
 羞恥に襲われ、顔を背けて俯く。きっと熱の所為で気が弱くなっているのだと自分に言い訳する。一瞬同じ様に驚いた顔をしたセラフィムは、だが直ぐに肩を竦めて笑った。
「しょうがねぇな」
 戻って来て、ベッド脇の元いた椅子に腰を下ろす。
「しっかし、よくもまぁあんな状態で平然と訓練こなしてたもんだな」
 呆れながらも半ば感心した様にセラフィムが言う。ヴィネルークは答えなかった。どう答えればいいか判らなかったからだ。別に我慢していた訳ではなく、抑えきれない苛立ちと渇きに苛まれ、本当に体調が悪い事に気付かないでいたのだ。
「そういえばお前、はじめて僕の名前を呼んでくれたね」
 ヴィネルークはぽつりと言った。
「ん? そうだったか?」
「そうだよ。ねぇ、あの時何を言い掛けたの?」
 聞けよ、と彼は言った。彼は何かを言おうとしていたのに、自分は聞く耳を持たずに突っ撥ねたのだ。
 セラフィムは少し考える仕草をした。言うべきかどうか迷う。
「ただの説教だよ」
 迷った挙句、言わない方を選ぶ。ヴィネルークはふぅんとだけ答えて、それ以上訊かなかった。
「なぁお前、やめられないのか?」
 声を絞り出す様に苦しげに問う。ヴィネルークの表情が翳る。
「判りきった事訊かないでよ」
 儚く笑う。重い沈黙が流れる。その沈黙を胎内に抱えて、夜は静かに更けていく。



「ねぇ、セラフィー。もう何ともないんだから、いちいち診にきてくれなくていいよ」
 俯伏せに寝転がり、枕の上で組んだ腕に顎を乗せてヴィネルークが言った。
 翌日の夕方には熱は下がりはじめ、それから三日程は微熱が続いたが、今ではすっかり平熱に戻っていた。傷も快方に向かっている。
 セラフィムは彼の言葉には耳を貸さずに、寝そべった彼のシャツをめくり上げた。そして顔を顰めた。
 傷は確かに塞がりかけていた。痕は残るだろうが、再び傷口が開く事がなければもう大丈夫だろう。だが。
 また増えている。
 セラフィムは眉を寄せ、険しい表情で背中を見下ろした。大したものではないが、小さな傷痕が幾つか増えている。いたたまれなくなり、くちびるを噛む。止める術はないのかと、口惜しさと無力さに打ちひしがれる。
「もうやめろよ、こんな事。やめてくれよ」
 彼はベッドの端に腰掛け、項垂れた。
「それは僕に死ねって言うのと同じ事だよ」
 ヴィネルークは首を巡らせ、薄く笑う。顔に掛かる髪の間からちらりと視線をよこしたセラフィムと眼が合う。
「どうしてお前がそんな顔をするのさ。僕は痛みが欲しいんだよ。快楽が欲しいんだ。僕は僕の欲望に素直に従っているだけだよ」
「お前、可笑しいよ…」
 セラフィムは声を震わせて呟いた。
 誰にでも欲望はある。それはセラフィムにも判る。彼にだって抑え難い欲望のひとつやふたつある。しかし、あんな酷い被虐を受けて気持ちいいと言うヴィネルークの性癖が到底理解できない。
「そうかもしれないね」
 不意に声に滲んだ深い憂い。ヴィネルークは寂寞を湛えた、こちらが悲しくなる様な眼差しで何処か遠くを見つめた。
「僕の事なんか放っておけばいいんだよ。何もかも忘れちゃえばいい。僕もお前を忘れるから」
 僕が欲しいのはお前の優しさじゃない。僕が欲しいのは、僕に痛みをくれて、僕を犯してくれる誰かの手。



 それはさよならの合図だったはずだった。もう関わる事も無いと思った。彼でなければならない理由など無い。彼では駄目な理由なら幾つもあってけれど。彼は痛みをくれない。
 眠れない夜が続く。月が嗤う。
 分厚い遮光カーテンを通してでさえ、その忌々しい光は降り注いで。
 ヴィネルークは何度目か判らない寝返りを打った。自分の下半身に手を伸ばす。
「ぅ…ん……」
 下着の中に手を差し入れ、まさぐり、擦り上げる。引き出しから淫猥な玩具を取り出し、脚の間に埋め込んでいく。
「ん……んっ…あっ…」
 身悶える。濡れた、切ない吐息が洩れる。刹那的な快楽が束の間の慰めをもたらす。ほんの一瞬のまやかしの安息だ。
「あっ……セラフィ…んっ」
 ヴィネルークは殆ど無意識の内に口走っていた。呼んでしまってからはっとする。
 僕は今、何と言った?
 僕は今、誰を呼んだ?
 戦慄き、震える。けれど、一旦火の点いた身体は容易には鎮まらなくて。幻想の彼の手に弄ばれ、彼の幻影に犯されて朽ち果てる。

 行為が終ると、余韻に浸る間も無く、幻は掻き消えた。慰める手は見当たらず、自分の乱れた呼吸だけが虚しく闇に溶けていく。
 月が嗤う。
 ヴィネルークは体内から玩具を引き擦り出した。
「くそっ!!」
 力一杯投げつける。それは壁に当たって大きな音を立て、床に転がった。手近にあったものを次々と壁に向かって投げる。聖書、置時計、ミネラルウォーターのボトル、枕、終いには電気スタンドまで投げた。それでも飽き足らず、ベッドを降りてバスルームへ向かう。捨てる事ができずに引き出しの奥に隠していた硝子の凶器を手にする。留まる所を知らない破壊衝動はいつだって最後は内側に向けられるのだ。
 彼は鋭利な鏡の破片で自分の腕を切りつけた。ぱっくりと口を開けた長くて深い肌の割れ目から、毒々しくて美しい赤が零れて、白い洗面台を塗り潰していく。
「ぅ……」
 彼は硝子片を握り締めたまま、膝から崩れ落ちた。両手で自身の肩を抱く。痛みは彼にとって最上の快楽だったはずだった。それなのに今、耐え難い苦痛に襲われている。それは言葉にできない深い深い喪失感と孤独。
 もうどうすればいいのか判らない。
 月が嗤う。
 昏い夜空の中腹で、月が嗤う。
 お前の所に行きたい。でなければ、このまま消えてしまいたい。



 翌日、ヴィネルークは人気の無い中庭のベンチでひとり、夜風に吹かれていた。右端の少し欠けた、いびつな形の月が空の下の方に浮かんでいる。
「未だ具合悪いのか?」
 風に乗って、穏やかな声が流れてきた。ヴィネルークはさっと顔を強張らせた。
「また監視?」
 首だけで振り向いて睨み付ける。
「だから違うって」
 セラフィムは苦笑しながら、どうしてこいつは怒った顔をしながらこんなにも泣きそうな眼をしているのだろうと思った。ひとり分程の距離を置いて勝手に隣に座る。
「顔色悪いから気になっただけだ」
 前を向いたままでセラフィムは言った。感情を押し殺しているのがよく判る喋り方だった。事実、仄白い月灯りに照らされている事を差し引いても、ヴィネルークの顔色は蒼白だ。今度のは、肉体的な傷が原因ではなかったけれど。
「やっぱり監視してるんじゃない」
 ヴィネルークの声に非難が混じる。セラフィムは左の頬に彼の鋭い視線を感じた。突き刺さる様に鋭いけれど、何処か頼りない視線を。
 それを受けながらも、彼は答えなかった。否定も反論もしなかった。表情と呼べるものが何ひとつ見出せない空恐ろしい程に無機質な横顔を曝したまま、前を見つめ続けている。それはヴィネルークにはできない芸当だった。別の表情で感情を隠す事はできても、全てを消失させる事は彼にはできない。何を考えているのだろうと、つい見入ってしまっていた。
 風が、沈黙を撫でながら通り過ぎていく。
「どうした」
 充分すぎる程の沈黙の後で、セラフィムは不意に言った。とてもとても優しい声だった。全てを受け止めて包み込んでくれる様な、訳も無く泣きたくなる様な、そんな声。
 驚きと困惑でただ声も無く見上げたヴィネルークは、相変わらず何の表情も創り出さない端正な眉にふと深い悲しみと痛みを垣間見た気がした。
「別に。どうもしないよ」
 何故だか怖くなって眼を背ける。
「嘘をつけ」
「僕の事は忘れろって言ったじゃないか」
 心と裏腹の拒絶は、悲鳴の様になってしまった。本当は委ねたいと思ってしまったのだ。彼に何もかもを委ねたかった。此処から救い出して欲しかった。
「お前に何ができるの? 僕がどういう人間か知っているだろう? 僕が何を望んでいるか知っているだろう?」
 踏み込まれるのを恐れる余りの攻撃の言葉は、皮肉にもすらすらと口を突いて出てくる。本当の事は何ひとつ言えない癖にだ。
 彼は自分を卑下する様な笑みを浮かべたまま言い募る。
「僕はお前みたいにお綺麗にはできていないんだよ。お前だって本当は汚らわしいって思ってるんだろ? 僕は…」
「黙れ」
 その時やっと、セラフィムの顔に表情らしいものが浮かんだ。押し殺した低い声の奇妙な迫力に、ヴィネルークはたじろいだ。眼を見張った彼の前で、セラフィムは眼元を歪めながら、口元で微笑んだ。
「痛みが欲しくなったら俺の所に来い」
 強い眼をして告げられた、信じられない言葉。ヴィネルークが息を飲む。これ以上無い程に見開いた瞼の奥で、水面に浮かぶ月の様に瞳が揺れる。
 セラフィムは答えを待たずに黙って立ち上がり、元来た方へ引き返していった。遠ざかる後ろ姿が寮棟へ消えていく。



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