窓枠に打ち付けられた、不格好な角材をぼんやりと眺める。寄せ集めたのであろういびつなそれは、突貫工事を物語る。
最後に此処を出た時には無かった。必要が無かったから。リオは夜の間しかこの部屋に滞在しない。
自分が昏睡している間に、シーエは貧血の身体を押して目張りをしたのかと思うと、いたたまれなくなった。
リオは無造作に転がるシーエの指先にそっと触れた。日曜大工など似合わない細い指先は爪が少し欠けていた。
この手に何度救われてきたのだろう。
いつもいつも、救われてばかりだ。
それなのに、十字を切るはずのこの手を、穢れを知らないこの手を、自分は罪に堕とした。
彼はそれすらも、全ては神の計らいだとでもいうだろうか。
何故なら、今この瞬間に自分が此処で息をしているのは、奇跡の様な偶然が重なったからに他ならないからだ。
あそこであの狂ったヴァンパイアが現れなかったら、あの老人が通り掛からなかったら、教会へ連れてこなかったとしたら。
不意に、触れていた指先を握り返された。眠っているものと思っていたリオは仰天して思わず手を引っ込めた。
「お前はいつも追うと逃げるね」
寝起きの掠れた声でシーエが笑う。
「掬っても掬っても零れていく、大河の名の通り、まるで留まるところを知らない流れのよう」
彼はえも言われぬ寂寞をほんの少しだけ目尻に浮かべた。執拗に追ってはこない指先が、諦観を表している様で。
この手が好きだ。大らかで、温かくて、優しいこの手が。
最後にもう一度、触れて欲しい。
口に出してしまいそうになるのを堪え、リオはぎゅっと両手を握り締めて、眼を背ける様に俯いた。
こうして今ひと度、彼に逢えただけで奇跡ではないか。
これ以上、何を望もうというのか。
彼を、主に背かせる訳にはいかない。
もう、此処にいる事はできない。
シーエ以外の人物に、自分がヴァンパイアだと知られてしまったのだから。
あの老人にも知られてしまっただろうか。
「シーエ」
「ん?」
シーエは変わらぬ穏やかな声で応える。
「おじいさんは?」
「お前を連れてきたあの老爺の事かい?」
「そう」
「あの人は一体何者なんだい?」
シーエは少し考える仕草をして、逆に問い返した。判らない、とリオは首を振った。
はじめて逢った時、医者に行く事を勧めてきたあの老人は、どうして瀕死の自分を教会へ連れてきたりなどしたのだろう。もう助からないから、だからせめて最後は神の膝元でと思ったのだろうか。
シーエは眼を伏せて小さく微笑んだ。
「不思議な事にね、あの老爺は気が付いたらいなくなっていたよ」
「いなくなっていた?」
リオは眼を見張る。
「そう、手品みたいにね」
だから速やかに血を分けてやる事ができたのだと、シーエは肩を竦めてみせる。彼は横になったまま、リオの肩越しに棚の上の十字架を仰いだ。
「あの老爺は主の御遣いだったのかな」
ぽつりと零れた言葉をまさかと笑い飛ばす事ができずに、リオは再び視線を俯ける。
「ね、だからリオ、主はお前の事も御覧になっている。自分から不幸になろうとしないで」
思わず涙ぐみそうになった。
その矢先だった。
「神父さま!! シーエ神父さま!!」
未だ夜も明けぬ内だというのに、息せき切ってシスターが聖堂に駆け込んできた。飛び上がったふたりだったが、一瞬険しい視線を交わした後で、シーエは直ぐに身を翻してベッドを降り、脱ぎ捨ててあった白いシャツを羽織った。怯えた様な眼をするリオを振り返り、人差し指をくちびるに宛ててそっと頷く。
そして再び背を向けた。
「どうしました、騒々しい」
シーエは動揺を押し殺し、なるべく平静な声で言った。
何があったかなど、訊くまでもなく見当はつく。ヴァンパイアが出たのだ。そして彼女の慌てぶりから察するに、襲われたのは恐らく信者だ。
崩れ落ちる様に祭壇の前で座り込む、真っ青になったシスターの元へ歩み寄る。余程急いで駆けてきたのだろう、縋る様にシーエを見上げた彼女は何か言おうと口を開いたが、呼吸をするのに精一杯で声にならない。
「シーエ様…街の人たちが、ヴァンパイアが、襲って…シーエ様が……」
やっとの思いで紡いだ言葉も支離滅裂で意味が判らない。シーエは屈み込み、彼女の肩に手を乗せた。
「少し落ち着きなさい。それじゃ何を言っているのか判らない」
彼女は震える様に小刻みに頷き、胸元に手を宛てて深呼吸した。神に仕える者の証がもうシーエのそこには無い事に、彼女は気付いただろうか。
「大変なんです。街の人が、シーエ様がヴァンパイアに襲われるのを見たって……それで、大騒ぎで…」
シーエの表情がさっと強張った。けれど彼女には、単に彼が驚いただけに見えたらしい。構わず話し続けた。
「わたし、言ったんです、何かの見間違いだって。シーエ様は襲われてなんかいないって。昨日も一昨日も、いつも通り朝からお庭の掃除をしていたって。でも、もう…街中パニックで…」
シスターは時折声を詰まらせながら、途切れ途切れに言った。シーエは舌打ちを堪える様にくちびるを噛む。
まずい事になった。とんだ失態だ。まさかあの現場を目撃されていたなんて。
あの老人だろうか。消えたと思ったあの老人が見ていたのだろうか。
ほんの一瞬物騒な考えが頭を過ったが、街中に知れ渡っている以上、口を封じた所で何の意味もなさない。
それよりも今は、リオを隠さなければならない。あの現場を目撃されたという事は、リオの正体も露見してしまったという事だ。
シーエは細く長く、静かに息を吐いた。
「判りました」
険しい顔付きで立ち上がり、髪を払う。
「あとは私が引き受けましょう。騒ぎが収まるまで、そなたは教会にいなさい」
「シーエ様…」
床に座り込んだまま、シスターが不安げに彼を見上げる。シーエはそっと微笑んでみせた。
「案ずる事はありませんよ。そなたの言う通り、私は襲われてなどいないのですから」
扉を細く開けて聞き耳を立てていたリオは、その一部始終を聞き戦慄した。どちらかが立ち上がる気配がしたので静かに扉を閉めたものの、戦慄く身体は震えてやまず、壁に背中をつけたまま、彼はへたりと膝を折る。
取り返しのつかない事になってしまった。
恐れていた事が起きてしまった。
全部自分の所為だ。
自分がシーエをここまで追い詰めた。
一刻も早く、シーエの前からもこの街からも姿を消さなければ。
けれどそれで、事態は収束するだろうか。
自分が消えて、それで済むのなら幾らでもそうしよう。例えもう二度と逢えないのだとしても。だがそれで、果たしてシーエは無事でいられるのか。
唐突に、扉が開いた。壁際に蹲るリオの姿に、シーエは驚いた様に一瞬動きを止めたが、素早く身体を滑り込ませて再び扉を閉める。
「お前、聞いていたの?」
抑えた声で問う。青ざめた顔色とその表情から、彼が盗み聞きしていた事は明らかだった。
「まぁいい。それなら話が早い」
言って、シーエは椅子に置かれたままの上着を取り上げ、リオの肩に掛けた。傍らに膝をつき、耳打ちをする様に顔を寄せる。
「此処にいてはいけない。今直ぐ此処からお逃げ」
「シーエは…? シーエはどうするの」
縋る様に彼の腕を掴むと、彼は笑ってリオの頭を撫でた。
「大丈夫だよ」
彼は子供をあやす様にぽんぽんと頭を叩き、自分の腕を掴むリオの腕を掴み返す。
「ほら、立って。いいかい、リオ。誰にも見つからない様に森を通って街へ降りるんだ。街の外れに小さな水車小屋がある。あそこは今は使われていないから、暫くそこに身を潜めていなさい」
シーエの言葉に、リオは嫌悪にすら似た憤りを憶えた。彼の底無しの優しさと自分の無力さに、苛立ちが募る。
「少しは自分の心配しろよ」
震えそうになるのを抑えながら、リオは責める様に声を絞り出した。
こうしてまた、ただ護られるだけなのが堪らなくつらかった。
シーエを置いて行きたくなどない。
けれど、此処にいては足手纏いにしかならない。できる事は何も無い。
どうして自分にはシーエを護る事ができないのだろう。
シーエに引っ張り上げられて漸く立ち上がる。シーエの温かな掌が、俯く彼の両頬を包み込む。
「必ず迎えに行くから」
リオはくちびるを噛んで、激しく首を振った。シーエを神に背かせるくらいなら、もう逢わなくていい。彼が築き上げてきたものを壊してまで、彼に何もかもを捨てさせてまで、愛される資格など無い。
「だからどうか、無事で」
判っている。
一緒にいるべきではないと。一緒にいてはいけないと。
判っているのに。
なりふり構わず彼の言葉に頷いてしまいたくなる。
「シーエも」
「リオ…」
祈る様な言葉の後で、どちらからともなくくちびるを重ねた。シーエはそこに再会を願い、リオはそこに別離を見る。名残惜しそうに頬を離れた手が、そっと背中を押した。
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