リオは一昼夜眠り続けた。昏睡する彼の身体は驚く程冷たく、シーエは何度も布団の中に手を差し入れて心臓の鼓動を確かめなければならなかった。そうしなければ、生きている事を信じられない。
 それでも、青ざめていた肌は少しずつ白さを取り戻し、やがて仄かに朱を帯びはじめる。危険は脱した様だ。
 ロザリオを握り締めて祈る。
 不意に、下ろされたままの睫毛の先が震えた。
「リオ」
 瞼がぴくりと動く。薄く開いたその奥から虚ろな瞳が覗く。
「リオ」
 リオはぼんやりと視線を宙に彷徨わせたまま、ゆっくりと声のする方に頭を向ける。シーエはほっとした様に柔らかく微笑んだ。
 けれど、リオの方はシーエの姿を認めるなり、みるみる顔を歪ませた。
「シー、エ…」
 彼は掠れた声で呟き、ふいと顔を背けた。
 自分はおぞましい事をしてしまった。
 あれ程逢いたいと願ったシーエの血を、事もあろうに飲んでしまったのだ。
 人間などではなかった。
 やはり自分は化け物だった。
「リオ、こっちを向いて」
 どうしてシーエの顔を見る事ができよう。彼は極度の貧血の所為で蒼白な顔をしていて、一歩間違っていたら殺してしまっていたというのに。
 壁を向いて肩を震わせるリオを、シーエはベッドに片膝をついて抱き締めた。
「すまなかった」
 リオが放せと言う前に、彼は畳み掛ける様に言った。腹の底から絞り出す様な酷く苦しげな声だった。
「どうしてシーエが謝るの」
 謝罪の理由が判らない。謝らなければならないのはこちらの方だ。どれだけ悔いても贖う事などできないけれど。
「お前を救いたい余りに、私はお前が最も苦しむ事をさせてしまった」
 あれ程人の血を飲む事を嫌がっていた彼に、自分の血を飲ませたのだ。やむを得なかったとはいえ、その事で彼がどれ程傷付き、苦悩するかを判っていたのに、だ。
「どうか自分を責めないでおくれ。私を許しておくれ」
「シーエ…」
 リオは顔を隠したまま更に表情を歪め、食いしばった歯の間から堪えきれずに小さな嗚咽を洩らした。そうして、回された腕におずおずと手を重ね、細い肩を震わせて、静かに泣いた。

 神よ、どうして貴方は時に苛烈で、彼はこんなにも慈しみ深いのでしょう。
 彼は自ら血を分け与え、あまつさえ殺されかけたというのに、何故許せなどと言うのか。
「珍しいね」
 シーエがやってきて、ぼんやりと十字架の主を見上げるリオの隣に座った。
 別に何も珍しくなどない、とリオは思った。ただイエスの前に座して、神を思っていただけだ。
 神を感じようとしてみただけだ。
 シーエが言ったから。
 神は自分を爪弾きにしたりなどしないと言ったから。
 それが彼には敬虔な信者にでも見えたのだろうか。
「何を祈ってたの?」
 問われてリオは少し考え、やがて短く答えた。
「何も」
「何も?」
「神は余りに偉大すぎて、何も祈れなかった」
 シーエの様には神を、感じる事ができなかった。
 思ったままを素直に口にすると、怪訝な顔をしていたシーエが微笑むのが判った。
「お前は主の御心に触れたんだね」
 今度はリオが顔を顰める番だった。彼の言葉の意味が判らない。触れられないから困っていたのだ。リオの視線を受けて、彼は同じ様に主を仰ぐ。
「主はいつもそこにおられるよ。お前が望むと望まざるとに拘らずね。いつもお前を御覧になり、心に掛けておられる」
「どうして」
 そんなはずは無い。有り得ない。シーエたちとは違う。
 自分はおぞましい異形の存在だというのに。
「お前も主の被造物だからさ」
 さも当然の様に言われて、リオは見開いた眼を瞬かせた。そんな風には考えた事がなかった。
 あぁ、だからか。だからシーエは自分を分け隔てなく慈しんでくれるのか。
 微笑みかけるシーエに、リオは眉根に寄せた皺は残したまま、僅かに表情を緩める。
「シーエ」
「ん?」
 彼は穏やかな笑みはそのままに、小さく首を傾げる。
「痛かった?」
 か細い声で問う言葉に、シーエは虚を突かれた様に微かに眼を見張ったが、直ぐにまた笑った。俯けたリオの視線は法衣に隠した左腕に注がれる。
「ほんの少しだけ」
 答えた彼の優しさに、胸の奥が痛みを訴える。大嘘だ。我に返って気を失う直前に見たシーエの顔は辛そうだった。今も未だ蒼い顔をしている。
 あの時も、それでも彼は微笑んでいた。
 シーエの血の味が忘れられない。自分のおぞましさを突き付ける様に、罪悪感を増長する様に、舌に蘇ってくる。
「怖かった?」
 リオは更に細い声で問う。
「うん」
 シーエは今度は笑わなかった。
「怖かったよ。とても、怖かった」
 彼は緩やかに瞳を伏せ、噛み締める様に言った。リオは俯いたままくちびるを噛む。その肩を、シーエが両腕で抱き寄せた。
「お前を失うんじゃないかと、堪らなく怖かった」
 彼は腕の中のリオの感触を、匂いを、確かな存在を刻み付ける様に頬を寄せ、その言葉通りに身体を震わせる恐怖の滲んだ、押し殺した声を絞り出した。リオは身体を強張らせただけで何も言わなかった。彼が何も言わないので、シーエはするりと腕をほどいて身体を離し、胸元に手を宛てた。
 そしてはじめて、首に掛けたロザリオを外した。情事の最中でさえ外した事のなかったそれを。
 彼は立ち上がって祭壇に向かい、静かにロザリオを説教台に置いた。
「お前が此処が神の家だという事を気にするのなら、私は主の『第一の僕』を辞そう」
 静かで穏やかで、けれど揺るがぬ響きを持った宣言に、リオは弾かれた様に彼を振り仰いだ。
「シーエ…!!」
 驚愕と戸惑いと非難の混じった悲鳴を上げる。シーエはゆっくりと戻ってきて、リオの前に跪いた。言葉を失くして怯えるリオの、瞳孔まで開ききった瞳を見つめる。そして今度は正面から抱き締める。
「判ってくれ、リオ。私は私を慕ってくれる全ての信者たちよりも、お前が大事なんだ」
 やめてくれ、シーエ。
 そんな愛は重すぎる。
 とても、背負えない。
 リオは身体を預けてしまいそうになるのを済んでの所で思い留まり、シーエの肩を押し戻した。
 司祭を辞してどうする? 何処へ行く? 教会はどうなる? 街は? 信仰は? ヴァンパイアに怯える人々は?
 そんな全ての言葉を飲み込んで、彼は静かに立ち上がる。
「そんなの無責任すぎるだろ」
 そんな無責任な事を、シーエにさせたくはなかった。

 リオは意図した拒絶を背中に貼り付けたまま聖堂を後にする。追ってはこないと思っていたのに、シーエは予想を裏切って追ってきた。
「どうして逃げる」
 司祭館へと続く廊下にシーエの声が響く。
「リオ!!」
 シーエは、振り返らない彼の手首を掴んで、強引に振り向かせた。振り払うだけの暇を与えず、乱暴に壁に押し付けてくちびるを塞ぐ。
「……!!」
 リオは動転して、咄嗟には突き飛ばす事もできなかった。泡を食って、ただ闇雲に視線を泳がせる。開け放たれたままの扉に半分隠れる様にして、斜めに主が見えた。
 流石に、直に主の見えるこんな所でキスをするのははじめてだった。教会の内部である以上、何処も大差は無いのだが、それでもせめてもの良心の呵責から、司祭館以外で事に及んだ事は無い。
 主の視線を、強く感じた。
「や、め…」
 漸く手脚の動かし方を思い出し、リオは押し退けようとシーエの肩に手を掛ける。だが、シーエはくちびるを離すと、壁と自分の身体でリオを押し潰す様にもたれ掛かってきた。
「お前は一体、お前を何だと思ってるの。私を何だと思ってるの。どうしてそんなに自分を疎んじるの」
 くぐもった声で吐き出された言葉に、リオの表情が歪む。
 シーエは知っている。知っているのだ。全部嘘だと知っている。全部見透かされている。
 シーエはのろのろと顔を上げ、両手でリオの頬を挟み込んで、じっと悲しそうに見下ろした。腕を上げた拍子に、法衣の袖口から白いものが覗いた。
「ねぇ、リオ。私はただの血液の代わり? ただの精液供給マシン?」
 堪えた途方も無い悲しみが、空気を介して伝わってくる。顔を背ける事の叶わないリオは視線だけを逸らす。奥歯を噛んで必死に無表情を創ろうとしたが、多分無駄な抵抗だったに違いない。
 彼はぶらりと垂れていた鉛の様に重い腕を上げ、頬を包み込んでいる手を払う。
「そうだよ。他に何があるってんだ」
 それでも、この嘘を貫き通さなければならない。演じ続けなければならない。
 見抜かれた、無様な嘘。
 だが、シーエは逃がさなかった。リオの胸倉を掴んで寝室に引き擦り込むと、彼の身体を押し付けて扉を閉め、再び呼吸を奪った。
「んっ……」
 リオは露骨に苦しそうな顔をする。陽が入り込まない様に内側から目張りされた窓枠と、椅子の上に畳んで置かれた、シーエが用意してくれた新しい服が視界に映る。
「やめっ…」
 重ねたくちびるの隙間からどうにか声を押し出す。シーエは制止の声を聞かず、くちびるを押し付けたまま彼のシャツに手を掛け、乱暴に臍のあたりまで引き裂いた。はだけられた胸に鳥肌が立つ。それは素肌に当たる冷気の所為なのか、恐怖の所為だったのか。
 シーエは立ち竦むリオの胸の突起を舌と指先で蹂躙する。
「や、だ…」
 ぞくりと肌が震える。右は舌先で転がされ、左は指で摘ままれて、左右で異なる刺激にリオは身を捩る。不快感しか無い。生温かい湿った感触も、乳首を押し潰す指の腹の感触も。
 空いていたシーエの左手が下半身に伸ばされた。指先を下にして、掌で包み込む様に服の上から擦り上げる。
「やだ…ってば……ぁっ…」
 意思に反してびくんと身体が跳ね、拒絶を紡ぐはずのくちびるからは熱っぽい吐息が零れる。
 疼く。快楽を知りすぎた身体は、奥の方からじりじりと疼く。リオはくちびるを噛み、きつく眼を閉じたが、流されまいと思う程に余計に感覚は鋭敏になり、頭をもたげはじめた快楽を追い払えない。シーエの手は、ゆるりゆるりと情欲を引き擦り出す様に、酷く粘着質に蠢く。服の上から与えられる中途半端な刺激に、熱は行き場を失う。
 快楽でもない、痛みでもない、耐え難い痺れ。




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