その時だった。耳の直ぐ傍で風が巻き起こり、肉のぶつかる音がした。
 肉を切り裂く音ではない。ぶつかる音だ。
 何が起こったのか判らなかったが、気付けば腹の上の重みが消えていた。リオはひゅうひゅうと喉を鳴らして喘ぎながら、首を巡らせた。
 ぶつかり合ったふたつの肉体は、少し離れた所で縺れ合っていた。否、何者かがリオを襲ったハンターに飛び掛かり、喉笛に食らいついているのだった。
 そのヴァンパイアは獣の様な鋭い爪でハンターの皮膚を引き裂き、肉を抉った。
「やめ…やめ、ろ…」
 リオは蚊の鳴く様な弱々しい声を絞り出す。彼は起き上がろうともがいたが、屋根から落ちた衝撃で外れてしまったらしい右肩が全く言う事を聞かない。ブチブチと血管だか内臓だかの千切れる、耳を塞ぎたくなる様な音がした。
 それでも未だハンターは生きているのだった。投げ出された手脚がびくびくと痙攣している。
「やめろ!!」
 ゴキン。
 リオの声の限りの叫びは、鈍い嫌な音に半ば掻き消された。けれど、ヴァンパイアの男の耳には届いたらしい。
「あぁ? 何だ、死に損ない」
 彼はもぎ取った腕をぶら下げて振り返り、横倒るリオに冷酷で無慈悲な赤い眼を向けた。リオは細い息を辛うじて繋ぎながら、譫言の様にもう一度やめろと呟いた。
「何言ってんだ。てめぇもヴァンパイアだろうが」
 男は言ってリオの脇腹を蹴り上げた。リオは悲鳴を上げる。
「なっさけねぇなぁ、人間如きになんてザマだ」
 男はまるで虫ケラでも見る様な憐れみの眼差しをリオに注ぐ。だが、何を思ったか、不意に手にしていたハンターの腕をリオの顔の前に突き出した。
「てめぇも食うか?」
「嫌、だ」
 リオは固く眼を閉じ、顔を背ける。
「早くしねぇと血が腐っちまうぞ」
「嫌だ」
「食わねぇとお前、死ぬぞ」
「嫌だ」
 ヴァンパイアの男は、頑なに拒絶するリオを理解不能という顔で暫し見下ろした。彼には判らない。死に瀕しながら拒絶するリオの心情が。
「変な奴。そんなに死にてぇんなら勝手に死ね」
 彼は言い、無造作に腕をリオの傍に放り投げた。それは単なる当て付けだったのか、ささやかな同胞意識からだったのか。

「うぅ…」
 男が行ってしまうと、リオは呻きながら寝返りを打ち、仰向けの身体を俯伏せに転がした。肘から下だけのどす黒い腕が眼に入る。彼はそのまま左腕一本で身体を引き擦って壁際まで這っていき、壁に手をついて立ち上がろうとした。痛みを堪え、手脚に力を入れる。けれど、うまくいかない。身体は思う様に動かない。
 何度も試み、何度も崩れ落ちて、漸く立ち上がる。立ち上がった途端、重力に引っ張られる様にしてさぁっと血の気が引いていくのが判った。
 意識が朦朧とする。眼が霞む。昏倒してしまいそうだ。
 本来、ヴァンパイアの身体は人間とは比べ物にならない程の治癒能力を持っている。生命を維持するのに最低限必要な臓器以外の全ての機能を停止させ、冬眠に近い状態を創り出す事で驚異的な自己修復能力を発揮する。丸一日もあれば大抵の傷は治ってしまう。だが、それには余りにも血が足りない。
 血の匂いに引き寄せられたのか、鼠が足元を駆け抜けていった。あれを食えば幾らかでも足しにはなる。だが、捕らえるだけの力が残されていない。眼で追うのすらも辛い。
 彼はふらつく脚で壁伝いに歩を進める。誰かの声が聴こえた気がした。
 行く宛てなど何処にも無い。
 何処に行けばいいのか判らない。
 何処に行けばシーエに逢えるのか判らない。
 彼は遂に膝を折る。もう一歩も動けない。
「おい!!」
 屑折れかけた身体を誰かが支えた。
「しっかりせぇ」
 あの老人だった。老人は血塗れのリオの身体を抱き締めて、必死に呼び掛ける。リオは血の気の失せた真っ青なくちびるを震わせて、何事かを訴えようと喘いだ。
「    」
「判っておる、判っておる」
 老人はそう言って何度も何度も頷いた。愛馬を手招き、まさに火事場の馬鹿力としか言いようのない力で、ぐったりと動かないリオを馬車に引き上げる。

「神父さま!! 神父さま!!」
 夜の聖堂に老人の声が響き渡る。今にも息絶えてしまいそうなリオを腕に抱えて、老人はしわがれた声を張り上げる。その声が余りに切迫していたからだろうか、普段は決して聞く事の無い慌ただしい足音が司祭館の方から近付いてきた。
「リオ!!」
 聖堂に足を踏み入れるなり、シーエは悲鳴の様な叫びを上げた。彼は十字架の前を突っ切って進み、最後は法衣の裾を絡ませながら駆け寄ってきた。銀色の長い髪が背で踊る。
 聖堂は神聖な場所である。常に主のおられる場所。大声を出す事は勿論、走る事は固く戒められている。主の前を横切るなど言語道断である。教会に携わる者なら誰もが心得ている。
「リオ!! リオ!!」
 その禁忌を犯してシーエはリオの元に駆けつけ、老人の手から引き取った、不規則に弱々しく息をする傷付いた身体を抱き起こした。
「シ……」
 薄らと瞼が開き、喘ぐ息の合間を縫って微かにくちびるが動く。焦点の合わない虚ろな瞳がシーエを映す。
「リオ…」
 ただ名を呼ぶ事しかできない。彼は全身血塗れで、何処が傷口なのかも判らない。力無く腹に宛てられた左手を見て、漸くそこから出血しているのだと理解した。
「御老人、一体……」
 言いかけて顔を上げたシーエは、だが最後まで言えずに言葉を切った。神隠しにでも遭ったかのように忽然と、老人の姿は消えていた。
 リオの苦しげな呻きで我に返る。
「リオ、私の血を飲みなさい」
 彼は法衣の袖を捲って、リオの顔の前に腕を翳した。
「嫌…だ」
 リオは顔を背ける。
 嫌だ。死んでも嫌だ。
 それだけは絶対に嫌だ。
「死んでしまう」
 狼狽え、取り乱すシーエは半ば懇願する様に血を飲ませようとするが、彼は頑なに顔を背け続ける。シーエは首に掛けたロザリオの先端で自身の手首を切りつけた。嫌がるリオの口元に手首を持っていく。
「や、嫌…」
 リオは遠ざかろうと、これでもかという程首を曲げ、腕の中でもがく。
 だが、シーエの血液がくちびるに滴り落ちた瞬間、失いたくなくて必死に留めていた、僅かばかりの最後の理性は跡形も無く消し飛んだ。かっと見開いた眼が金色の光を宿し、リオは彼の手首に噛み付いた。教会の外で、枯葉がざわりと音を立てた。
 シーエは鋭い痛みに思わず眉を動かしたが、それだけだった。腕を差し出したまま、もう片方の手でリオの頭をそっと撫でる。彼がいつもそうしている様に。
 しかし、やがて睡魔に似た目眩に襲われる。頭がくらくらして、何だか気持ちが悪い。
「リオ、その位にしてくれ」
 けれど、血に飢え、理性を失い、本能のままに血を飲む彼に、声は届かない。
「リオっ…!!」
 シーエは力の入らない手で頭を掴んで引き剥がそうとした。すると、リオは低い唸り声を上げて抵抗した。お気に入りの玩具を取り上げられそうになった犬がそうする様に、顎に力を入れて牙を立て、歯を剥いて。
 その瞬間、信じられない考えが脳裏を過った。
 まぁ、いいか…。お前に殺されるなら。
 思った瞬間、彼は全身の力を抜いて、身を委ねていた。青白い顔には微笑みさえ浮かんだ。
「リオ…」
 愛おしそうに呼び、髪に触れる。敵意を漲らせていたリオの瞳がはっと感情を取り戻した。彼は絶望に打ちひしがれる様に凍り付き、輝く瞳は急速に色を失った。ふたりは殆ど同時に、重なり合う様にして倒れ込んだ。




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