その日、或る名門士官学校でひとりの学生が死んだ。
 穏やかな朝の廊下に響き渡る悲鳴。慌ただしい靴音。
 駆けつけた者たちが見たのは、容姿端麗、成績優秀、常に首席の座を欲しいままにし、将来を嘱望されていた少年の無残な姿。彼の美しい肉体は物言わぬ死体となって朝陽に照らし出されていた。
 やがて、幾らも経たぬ内にひとりの青年が拘束された。廊下には大量の血痕がそのまま残されており、生々しい赤は彼の部屋の前で途切れていた。
 教官がドアを叩く。反応は無い。寮長が施錠を解く。蹴破る様な勢いで開けたドアの前で、彼らは凍り付く。
 血痕が続いていた。その先に、どす黒いベッドに横倒るこの部屋の主。俯伏せに倒れたまま微動だにしない。死体かと見紛う程だったが、よく見れば血塗れの背中が微かに上下していた。傍らには、同じく血に塗れた探検が無造作に転がっている。
 彼の名はセラフィム。取り立てて秀でているという訳でもなければ落ちこぼれという訳でもない、至って平凡な目立たない学生だった。教官の間でも学生の間でも評判のいい、実直で律儀な好青年である。
 彼はその場で取り押さえられ、連行され、軍法会議に掛けられた。
「お前がやったんだろう? 何故殺した?」
 彼は黙秘を続けた。彼が一向に何も喋らないので、士官が入れ替わり立ち代わりやってきては、時に激しく、時に優しい口調で同じ尋問を何度も繰り返した。
 やがて士官たちが囁きはじめる。気が触れたのだと。彼は終始虚ろな眼をしており、時折士官たちには理由の判らない笑みを浮かべ、恍惚とした表情を浮かべるのだ。だが、ただの一言も声を発する事は無かった。



 それから三か月程前。
 セラフィムは寮の廊下を自室に向かって歩いていた。この学園では十五歳から十九歳までの少年たちが寝起きを共にし、日々訓練を積んでいる。最高学年である十九歳のセラフィムは卒業試験に向けて目下勉強中である。
 辞書の様な分厚い本を何冊も抱えて歩く彼は、ふと廊下の先に明かりが洩れている事に気付いた。消灯時間を過ぎている為、廊下は薄暗い。進んでいく内に、それがヴィネルークの部屋だと判った。
 ふたつ下の学年であるヴィネルークの事はセラフィムも知っていた。というより、この学園で彼の名を知らぬ者などいまい。他を寄せ付けぬ圧倒的な才能と身体能力で主席の座に君臨し続け、入学当初から何かと騒がれていた。おまけに抜きんでた容姿の持ち主ときている。眼を惹かないではおかない。
 だが、セラフィムは密かに彼に畏怖を抱いていた。彼の年齢に不釣り合いな醒めた瞳の奥には何か底知れぬ深い闇を感じる。彼の眼差しは空恐ろしい程に美しく、妖しく、艶かしい。それがセラフィムには危険に映る。
 細く開いたドアの前を通り過ぎようとした時だった。小さな呻き声が聞こえて、セラフィムは足を止めた。振り返る。声はやまない。耳を澄ますと、ぴしりと何かを打つ音も聞こえてきた。その音の原因は判らなかったが、何処か具合でも悪いのだろうかと、彼はドアの前まで引き返し、指の関節で軽くドアを叩いた。
 返事は無い。音も声もやまない。
「どうかしたのか? 入るぞ」
 言い置いて、ドアを引く。眼の前には信じられない光景が広がっていた。
 息を飲んで戦慄する彼の手から、本が滑り落ちる。ヴィネルークはちらりと眼をやったが、直ぐに顔を戻し、再び苦悶の表情を浮かべて行為に耽りはじめる。
 セラフィムは余りの出来事に動く事ができなかった。頭の上で手首を拘束された全裸のヴィネルーク。彼は俯伏せに上半身を机に乗せ、尻を突き出す様な姿勢で立っていた。彼の後ろに立つ男の手にはベルトが握られており、それが彼の背中を打つ。明らかに上級生だ。既に彼の背中には幾筋もの赤い線が鮮やかに浮かび上がっており、尻の間からは、低く唸りながら蠢く卑猥な玩具が覗いている。
 漸く我に返ったセラフィムは震える手で慌ててドアを閉めた。それからふたりに近付く。
「何をしている!! お前、何てことを!!」
 恐ろしい虐待が行われていると知った彼は、上級生の青年からベルトを取り上げようと掴み掛かった。
「邪魔するな!!」
 そう叫んだのは、ヴィネルークの方だった。セラフィムは驚いて思わず制止し、彼を見下ろす。その隙に上級生が彼を弾き飛ばす。
「お前はそこで黙って見ていろ」
 ヴィネルークはセラフィムを睨み付け、僅かに頭をもたげて上級生を見上げた。
「アラン、続けて」
 振り下ろされる皮のベルト。増えていく赤い蚯蚓腫れ。肩にも腰にも太腿にもそれは及び、引き裂かれた皮膚から血が滴る。打たれる度に上がる甘い悲鳴と聞くに耐えない様なその音を、セラフィムは床に座り込んだまま茫然と耳に入れていた。
 やがて、アランと呼ばれた上級生はヴィネルークの尻の間から玩具を引き抜き、彼の上にのし掛かった。片手で彼の腰を掴み、もう片方の手を前に回して剥き出しの性器を刺激する。喘ぐヴィネルーク、唸るアラン。ふたつの腰が共鳴しながら激しく動き、淫らな湿った音が乱れる息遣いの合間を縫う様に夜の静寂を満たす。
 そして吐き出される最後の切ない吐息。
 全てを終えると、彼らは呆気無いくらいにすんなりと身体を離し、さっさと脱いだ服を着込んだ。ヴィネルークは歯を使って自分で手首の拘束をほどきさえした。
「またね、アラン」
 何事も無かったかの様に手を振ってから、ヴィネルークは思い出した様に壁際に蹲るセラフィムに眼をやった。
「未だいたの」
 冷たい瞳がセラフィムを見下ろす。彼はそこに邪悪な笑みを乗せて、セラフィムの前に屈み込んだ。
「もしかして、お前も僕を抱きたいの?」
「冗談じゃない!!」
 セラフィムは後ずさりながら立ち上がり、逃げ出す様に彼の部屋を飛び出した。本を置いてきてしまった事に気付いたのは翌朝になってからだった。



 結局その夜は一睡もできなかった。見てしまったものと聞いてしまったものが脳裏に灼きついて離れず、一晩中神経を苛んだ。彼は青い顔で朝礼に行き、殆ど味の判らない朝食を無理矢理胃に押し込んだ。吐き気を堪えながら、食堂から寮棟へと続く回廊を渡る。
「お早うございます、先輩」
 階段の踊り場で、不意に声を掛けられた。ヴィネルークがにこやかに微笑んで会釈する。セラフィムは背中がぞくりとするのを感じた。この朗らかで人当たりのいい笑顔が完全なる創り物である事を彼は知っている。その余りに見事な豹変ぶりが、ヴィネルークへの畏怖を増幅させる。
「先輩、昨日参考書を忘れていかれましたよね」
「あぁ、取りに行こうと思っていた」
「いえ、先輩に足労させるのは失礼ですから僕が伺います。今日の放課後は空いていますか?」
「いいよ、俺が勝手に忘れたんだ」
「そんな訳にはいきません。それに…」
 ヴィネルークは顔を近付ける。
「僕の部屋に来るのは嫌でしょう?」
 囁き、くすりと笑う。彼はそのままくるりと背を向けた。
「ちょっと待て、お前」
 階段を上がっていきかけたヴィネルークの腕を掴んで、セラフィムは咄嗟に彼を引き止めた。すると、ヴィネルークは恐ろしい剣幕でその手を払った。
「触らないで」
 笑みは消え失せ、凍てつく様な眼差しが降り注ぐ。
「僕に触れていいのは、その覚悟がある者だけだよ」
 その覚悟―――彼を痛めつけ、彼を抱く覚悟。
「では、また後程」
 セラフィムが怯んでいる内に、ヴィネルークは元の外行きの笑顔に戻って軽快に階段を上がっていってしまった。



 そして、放課後。果たして彼はやって来た。
 唐突に二度のノック。
「先輩、僕です」
 ドアを開ける。ヴィネルークは士官候補生らしくきちんと踵を揃えて立っていた。
「お忘れ物です」
「すまない。有難う」
 言って、書籍の束を受け取る。ヴィネルークは直立したまま一歩も部屋に入ろうとはしなかった。
「いえ、では僕はこれで」
 敬礼する。その手を掴んで部屋の中へ引き込んだ。彼の後ろでドアを閉める。
「先輩、やっぱり僕を抱きたいの?」
 驚く風も無く、ドアを背にして立ったまま彼は笑った。あの冷たくて、全てを見下すかの様な眼で。
「違うよ」
 セラフィムは眉を寄せ、顔を歪めた。
「どうしてそんな顔をするの?」
「だってお前…どうしてあんな事…」
 彼には理解できない。ヴィネルークが自ら望んであんな恐ろしい行為に耽る理由が。
「どうして? 気持ちいいからに決まってるじゃない」
 彼は何でも無い事の様に、当り前だと言わんばかりにそう口にした。
「気持ちいい? あれがか?」
「そうだよ」
 昨日の光景をまた思い出して、セラフィムは顔を顰めた。ヴィネルークは平然としているが、あの傷は軍服の下で今も生々しく痛んでいるに違いないと思う。
「ちゃんと手当したのか?」
「放っといても直ぐに治るよ。そう、直ぐに消えてしまう」
 彼はほんの一瞬、酷く淋しそうな顔をした。その横顔が余りに美しかったから、何故だか胸が塞がって、セラフィムは何も言えなくなった。
「先輩、セラフィムっていうんだね」
 唐突にヴィネルークが言った。
「綺麗な名前。最上位の天使の事だ」
 彼はうっとりと言う。その表情は普段の彼のものとも、昨晩目の当たりにしてしまったものとも違っていて、セラフィムにはどれが本当の彼なのか判らなくなった。
「お前だって。ルークというのは聖人の名だ」
「そうだね。僕らは神の僕だ」
 ヴィネルークは薄らと眼を細めて笑い、不意に覗き込む様にしてセラフィムを見上げた。
「ねぇ、先輩。僕を抱いてよ」
 囁き、身体を寄せる。求める眼差しに狂気が宿る。
「やめろ」
 セラフィムは後ずさった。直ぐに机に阻まれる。両手で彼を押し戻す。ヴィネルークは追い縋り、軍服の上から彼の股間に手を伸ばした。
「やめろ!! やめっ…」
 しがみついてくる身体を引き剥がそうとしたが、彼は難なくそれを躱して性器を擦り上げた。彼の手は絡みつく蛇の様にするりとズボンの中に入り込む。
「俺は、男だ」
「そんな事は知ってる。僕だって男だ。でもそれが何だって言うの? 子供が創れない、ただそれだけの事じゃないか。僕はそんなものが欲しいんじゃない」
 言いながら、指を絡ませる。直に触れられた下半身が疼き出す。否が応にも性欲が引き擦り出されていく。セラフィムは背後の机に両手をついて身体を支えた。ヴィネルークが彼の足元に跪き、ゆっくりと愛おしそうにズボンのファスナーを下ろす。顕になったそこに舌を這わせ、くちに含み、貪る。
「くっ……」
 セラフィムは歯を食いしばって快楽に抗おうとした。
「ねぇ、セラフィム、気持ちいい?」
 くちびるを自身の唾液と溢れはじめた精液に濡らしたヴィネルークが妖艶に笑う。セラフィムは片手を彼の肩に掛けた。
「くそったれ!!」
 軍服の襟を掴んで引っ張り上げ、ベッドに突き飛ばす。仰向けに弾んだ彼の上に覆い被さる。セラフィムは自分の首に手をやり乱暴にネクタイを緩めると、半開きの淫らに艶めくくちびるに噛みついた。
 くちびるを重ねるだけでは足りなくて、歯列を割って舌を差し込む。舌が縺れ合う。ヴィネルークはセラフィムの首に腕を回し、引き寄せる様に頭を掻き抱いた。ぞくぞくと背中が痺れる様な感覚に戸惑いを憶える。
 キスは嫌いだった。あんなもの、気持ちよくも何とも無い。求めているのは痛み。欲しいのは痛みだけのはずなのに、そうしてだろう、酷く心地良い。
 セラフィムの手が軍服に掛かり、前をこじ開ける。そこではっと彼は動きを止めた。昨日は動転していて気付かなかったが、ヴィネルークの身体は何処もかしこもそこら中傷だらけだった。幾つもの裂傷が縦横無尽に走り、治りかけの黄色い痣の隣に真新しい青い痣が浮かぶ。彼は本当に、日常的にあんな事を繰り返しているのだと思った。
「驚いた? 綺麗でしょう?」
「こんなもの無い方がずっと綺麗だ」
 セラフィムは視界を塞ぐ様に眼下に広がる肉体に顔を埋めた。事実、華奢で引き締まった肢体はたおやかで優雅で、えも言われず美しい。呼び醒まされた性的興奮に後押しされ、魅惑的な肉体に溺れていく。
 セラフィムはヴィネルークの下半身に手を伸ばした。ヴィネルークがしなやかに仰け反りながら声を上げる。セラフィムはくちびると舌で彼の全身をくまなく愛撫しながら、ゆっくりと下っていく。やがて彼の脚の間に身を屈め、彼の性器にくちづける。ペニスを愛撫するのなどはじめてだったが、不思議とそこに嫌悪は無かった。自分がされて感じる事を彼にもしてやればいい。ヴィネルークは腕を曲げ、手の甲をくちびるに宛てて鳴いた。
 両脚を大きく開かせ、後ろに指を這わせる。柔らかな粘膜にはそぐわない、不自然に硬いものが指先に当たった。
「あぁ、それ?」
 思わず顔を上げたセラフィムを、ヴィネルークは僅かに頭をもたげて見下ろす。
「知らない? アナルキャップ。こうしておかないとね、出ちゃうんだよ」
 彼は淡々と言った。セラフィムにとっては、それは衝撃的な言葉だった。そんなになるまで此処で男たちを、男たちの欲望を受け止めてきただろうか、と思う。何だか胸が苦しくなる。同時に苛立ちの様なものを憶えた。彼に対する苛立ちなのか、彼を犯してきた男たちに対する苛立ちなのかはよく判らない。
 彼はその小さな栓を摘まんで引き抜き、代わりに自分の指先を滑り込ませた。
「あっ…セラフィ……んっ…」
 埋め込んだ指で内部を掻き回してやると、ヴィネルークは身を捩って歓喜した。指を抜き取る。そこに、抑えのきかなくなった自身の欲望を突き立てる。彼の上にのし掛かる。
 ヴィネルークはセラフィムの身体に腕を絡ませた。こんなのははじめてだった。こんな、身を焦がす様な快楽は。いつだって主導権は自分が握っていたはずだ。こんなセックスでは満たされないはずだ。それなのにどうしようも無く翻弄されている自分に彼は愕然とした。何かが壊されていく感覚に恐怖した。
「あっ、あっ……あぁっ…」
 激しく揺さぶられながら、彼は未だ嘗て味わった事の無い快楽の波に飲み込まれていった。自ら身を委ねたのではない。ただ単純に抗えなかっただけだ。
セラフィムの腰使いがいよいよ激しさを増す。吐息を荒らげる。高みへ昇り詰めていく。張り詰めていた欲望が解放され、ヴィネルークは一際長く鳴いた。

 セラフィムはヴィネルークの隣に倒れ込んだ。ヴィネルークは天井を見上げたまま、セラフィムは顔を半分枕に沈めて、ふたりは少しの間乱れた呼吸を続けながら快楽の余韻と気怠さに浸っていた。
 暫くして、ヴィネルークは首を回して隣に横倒るセラフィムを見つめた。
「男を抱いた事あるの?」
 はじめてだと思っていたのだが、その割に酷く良かったので、そう訊いてみる。
「ある訳あるか馬鹿!!」
 セラフィムは今更ながら恥ずかしくなって怒鳴った。そっぽを向く。その耳が赤くなっている。
「ねぇ」
「何!!」
 セラフィムは怒った様な声で乱暴に返事をする。
「少し眠ってもいい?」
 セラフィムは答えなかった。随分長い事身じろぎひとつしなかった。ヴィネルークが無視されたのだと思いはじめた頃、漸くぽつりと呟いた。
「………好きにしろ」
 ヴィネルークはもぞもぞと寝返りを打ち、やがて彼の背後で静かな寝息を立てはじめた。セラフィムは横になったまま頬杖をついて頭を支え、ヴィネルークの寝顔を見つめた。
 その内に自身も寝入ってしまっていたらしい。明け方に眼が醒めると、彼の姿は無くなっていた。



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