リオはげほげほと激しく咳込んだ。飲み込みきれなかった精液がぱたぱたと床に飛び散る。彼は苦しげに肩を上下させながら顔に付着した液体を拭い、よろりと立ち上がった。
「帰る…」
 精液を貰っておきながら抱かせないというのは卑怯な気がしたが、後ろ髪を引かれながらもそう呟くと、ベッドの上で微かに息を弾ませていたシーエの耳がぴくりと動いた。
「帰るって何処へ? お前に帰る場所なんてあるの?」
 予想だにしなかった言葉に虚を突かれ、リオの動きが止まる。思わず見下ろせば、声音同様に少し不機嫌で棘のある、辛辣な視線とぶつかった。けれど、その中にも相変わらず寂寞が見え隠れしていて。
 彼はベッドから立ち上がりも腕を伸ばしもしてこなかったので、リオは今度こそ逃げ出そうと、眼を逸らす様に踵を返してドアへと向かった。
 ドアノブを捻り、ドアを引き―――
 しかし、無情にもドアは再び閉じられた。リオの鼻の直ぐ先で。
 彼の肩越しにドアに片手をついて、シーエが背後に立っていた。
 身体が竦んで動けず、肩を強張らせて振り返れもせずに立ち尽くしていたら、後ろから腕が伸びてきておもむろに抱き締められた。頭を撫でる時とも、素肌を愛撫する時とも、先程髪を鷲掴みにしていたのとも違った感触だった。幾度と無く身体を重ねてきたのに、今迄に感じた事の無い温もりだった。
 何故だか切なさが胸を満たした。身体を支配する恐怖は拭い切れず、しつこく奥の方に蟠っていたけれど、もう取り乱す程ではなかった。リオは俯けた目線の少し下、鎖骨のあたりで交差された腕をぼんやりと見下ろした。シーエがうなじに顔を埋めてくる。
「ねぇ、リオ。何処へ帰るっていうのさ」
 確かに、帰る場所は無い。
 敢えて創らない様にしてきたのだから。
 強いて言うなら、祖父と過ごしたあの小さな家、あれがリオの唯一の還る場所だ。だが、あの家はもう無い。祖父もいない。
 だから、根無し草でいい。
 陽の光が届かず人の眼にも触れない、お誂え向きの寝床を見つけて、朝が来る前にそこで眠りにつく。気に入れば二、三日留まり、腹が減ればシーエの元へ行き、ついでに風呂に入れて貰う。たまには彼と一緒に食事をしたりもする。当然人間の食べ物はリオには必要無かったが、シーエはひとりで食事を取るのは淋しいからと笑って、時折付き合わされるのだ。
 それで、良かった。
 いずれシーエは老いて死ぬ。いや、死ぬのを見届ける事はないのだろう。余程の絶倫でなければ歳と共に精力は衰えるものだ。そうなれば自分たちを結びつけるものは何も無くなる。
「何処だっていいだろ、別に」
 リオは乱暴に吐き捨てる。シーエはもう何も言わなかった。
「放せよ」
 やがて、一抹の淋しさを残して落ちる花びらの様にはらりと、回されていた腕が離れていった。

 教会を後にし、街へと降りる。いつもは賑わっている娼館のあたりでさえ、廃墟の様に静まり返っていた。街中が息を殺して朝の到来を待ち侘びている。
 あの老人は無事だろうか。
 ふとそんな事を考えた刹那、ぴりりと首筋に悪寒が走った。
 あのヴァンパイアか!?
 リオは視線を躱す様に反射的に横に跳んだ。
「流石だな、ヴァンパイア」
 振り向くと、人気の無い路地の向こうからくつくつと笑う声が届いた。眼を凝らせば、黒装束を纏った大柄な男が闇の中に佇んでいた。こちらにゆっくりと近付いてくる。
 リオは戦慄した。直ぐ背後に立たれたかの様な殺気だった。あの鋭利な殺気を、この距離から放ったというのか。
 こいつは、ハンター…。
 リオは全身に緊張感を漲らせ、闇の中から進み出てくる人影を凝視した。いつから尾けられていたのかも、いつから見抜かれていたのかも判らない。リオの反応を流石だなどと揶揄混じりに称賛してはいるが、この落ち着きと気配の殺し方、そしてリオをヴァンパイアだと断じた嗅覚、向こうも相当な手練れだ。
「最近好き勝手暴れ回ってやがるのはお前か」
 男が忌々しげに言う。
「違う」
 視線は彼に注いだままでじりじりと後ずさりながら、リオは即座に否定した。信じて貰えるとはこれっぽっちも期待していなかったけれど。
 案の定、男は耳を貸さず、突然地面を蹴って突っ込んできた。左手に携えていたサーベルを抜き、斬りかかる。後ろに跳んだリオの喉の先を切っ先が横切っていく。
 速い。だが、リオの脅威にはなり得ない。彼の得物が銃火器の類でなかったのは幸いだった。幾らヴァンパイアが人間より俊敏に動けるといっても、銃を持ち出されたら太刀打ちできない。
 次々と繰り出される正確な斬撃をひらりひらりと躱しながら、リオは反撃の機会を窺う。反撃といっても、何も返り討ちにしてやろうというのではない。体勢を崩して、ほんの僅かな間を生み出すだけでいい。
 だが、男の太刀捌きに隙は無く、サーベルのリーチが長すぎて容易には間合いに入り込めない。次第に壁際に追いやられていく。
 男が勝ち誇った様な笑みを見せる。リオは素早く背後に視線を走らせた。壁までは、あと三歩程。男は彼がよそ見をしたその一瞬を見逃さなかった。貰った、とでもいうかの様に大きくサーベルを振りかぶる。
 リオは男の渾身の一太刀を、柄を握る彼の手を捉えて受け止めた。華奢な身体からは想像もつかない力で押し戻していく。しかし、男も一歩も引かなかった。脚を踏ん張り、サーベルの自重と重力の上に、更に体重を乗せる。
 体格の差を見せつけられる。拮抗していたかに思えたが、刃は少しずつリオの頭上に迫る。
 リオはくちびるを噛む。命を奪うつもりはないが、多少の荒業は致し方無さそうだ。腕の一本くらいへし折ってやらねば収束しそうにない。彼は男の手首を捻ろうと指に力を籠めた。
 彼の力の加え方の変化に気付いた男は、その瞬間剣を引いて飛びずさった。リオと男の間に隔たりが生まれる。リオは眼球だけを動かして上空を仰いだ。
 いける。あの高さなら跳べる。
 膝を曲げ、身体のバネを使って跳躍する。だが、次の瞬間、男は恐るべき敏捷さで左手に持っていた鞘を屋根の上、丁度リオの着地地点に投げつけた。
 足を取られ、視界が傾く。屋根と空がひっくり返る。
 落ちる―――
 彼は猫の様に空中で身を翻し、屋根のへりを掴もうと手を伸ばす。
 あと少し。
 指先が屋根に触れる。
 しかし、掴む事はできなかった。
 今度はサーベルが、落下する彼めがけて真っ直ぐに飛んできたからだ。
「っ…!!」
 リオの腹に深々とサーベルが突き刺さる。ハンターの手を離れて自分の身体に突き立てられたそれを、信じられないものを見る様に見つめ、リオは落ちた。受け身を取る事もできず、右半身をしたたかに地面に打ちつける。
 男は呻き声を上げる彼に歩み寄り、靴底で肩を踏みつけて力任せにサーベルを引き抜いた。
「うあ゛ぁっ…」
 リオの絶叫が狭い路地に響き渡る。傷口から血が溢れ出す。腹を押さえて蹲った彼は大量の血を吐いた。男は眉ひとつ動かさずに靴の先で彼の身体を返し、仰向けに転がった彼の上に馬乗りになった。痛みに顔を歪め、はっ、はっと激しく呼吸する彼の喉の真上に、両手で構えたサーベルを振り翳す。
 駄目だ。殺される。
 シーエ―――
 自分の血で鈍く煌く刃に否応無く死を突き付けられて、真っ先に呼んだのは彼の名だった。
 シーエは悲しむだろうか。
 優しい彼の事だから、きっと引き止められなかった自分を悔いて責めるのだろう。
 彼の方が先に死ぬと、残されるのは自分だと、勝手に決めつけて罵った自分が滑稽で愚かしい。
 乱暴に言い放ったあの言葉が、彼と交わした最後の会話になってしまうのが悲しい。
 こんな事なら、あんな事言わなければよかった。
 シーエ、もう一度、逢いたかった。
 閉ざした瞼の間から後悔の涙が溢れて睫毛を濡らし、こめかみを伝った。




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