多分、気絶したのだと思う。眠りについた記憶が無い。眼が醒めたのは、太陽の気配が忍び寄ってきたからだ。隣で安らかな寝息を立てるシーエを起こさない様に、リオはそっと抜け出そうと試みる。
「い゛っ…!!」
 身体を起こそうとした瞬間、腰にキィンと強烈な痛みが走って、彼は呻き声を上げてベッドに突っ伏した。先程の情事が脳裏に蘇る。あの一撃は効いた。続く呻きはどうにか押し殺して、びりびりと痛む腰を押さえながら怨めしげに横を見やれば、元凶であるシーエは彼の呻きに反応したのか、微かに眉を顰める様にして身じろぎした。
 しかし、覚醒には至らない。蹴っ飛ばしてやりたかったが、腰が痛んでそれもままならず、リオは腕の力を使ってどうにか身体を起こす。そうしている内にも忌まわしき朝陽の匂いは濃さを増し、彼は散らばった服をこれまた苦心して拾い上げた。
 よろよろとドアへ向かい、夜明け前の冴え渡る空気の中へと溶け出していく。

「おや、お兄さん、今日は随分と顔色がいい様じゃな」
 聞き憶えのある、しわがれた声が頭上から降ってきて、リオは顔を上げた。馬車の老人が手綱を握ったまま微笑み掛けていた。
「どうしたね? 腰でも痛むのかね?」
 腰を庇う様な歩き方で直ぐに判ったらしい。流石腰痛は老人の専売特許なだけはある。決まり悪そうに眼を逸らした彼を見て、老人は顎髭に手を宛てて愉快げに笑った。
「ほっほっほ、野暮な事を訊いてしまったかの」
 悪びれる様子も無く茶目っ気たっぷりに悪戯っぽい眼を向けられて、リオは渋い顔をした。こんな時間に火照った顔で腰を庇って歩いていれば、確かに誰でもそう思う。この時間に外をうろついているのは、閉店作業に勤しむゴミ出しのバーテンダーか娼婦くらいのものだ。
 好きものの男娼の様に言われるのは不本意だったが、ヴァンパイアだと露呈するよりはマシだ。そう思ってリオは黙っていた。それに、金銭の代わりに精液を得ているというだけで、本質は男娼とさして変わりないのかもしれない。
「乗っていくかね?」
 皺だらけの顔は笑うと更にしわくちゃになる。優しげな眼が皺に埋もれてしまいそうな程に相好を崩して老人は言い、リオが断る気配を察したのか、馬鞭の先で彼の腰を小突いた。
「これも何かの縁じゃ。送っていこう」

 馬車に揺られて幾らも経たない時だった。突然、女の金切り声が響き渡った。座席で丸くなっていたリオは飛び上がった。
「何、今の!?」
 小窓から顔を出すと、動揺して暴れる馬を老人が必死に宥めていた。闇に沈んでいた家々の窓に次々と灯りが灯る。老人とリオは顔を見合わせた。多分、考えている事は同じだったに違いない。リオは未だ痛む腰を庇いながら、馬車から飛び降りた。
 途端に嫌な匂いに包まれた。リオは顔を背ける様にして手の甲で鼻を押さえた。
 近い。噎せ返る様な、生臭い血の匂い。
 夥しい量だ。普通はこんなに酷い匂いを発さない。
 けれど、リオもヴァンパイアである。血の匂いを嗅げば疼き出す。身体中の細胞がざわめくのを抑え込み、彼は匂いの強い方へと歩を進めた。
「これ、何処へ行く」
 老人が慌てて呼び止めた。
「貴方は逃げて下さい。もう直ぐ夜が明ける。それまで、できるだけ遠くに」
「君は、どうする気だね」
「放ってはおけない」
 多分もう、助ける事はできないだろうけれど。
 リオは頭絡をつけた葦毛の馬の鼻先をそっと撫でる。
「頼んだよ」
 言って尻を叩く。馬は一声鳴いて走り出した。
「おい、こら!!」
 老人の喚く声が遠ざかっていく。

 匂いを辿る様に路地を進んでいくと、女は直ぐに見つかった。リオと同じ様に悲鳴を聞きつけて出てきた住人達が、ヴァンパイアだ、ヴァンパイアが出た、と叫んで逃げ惑う中、彼女は地面にへたり込む様に力無く座っていた。リオは余りの惨状に戦慄を憶え、足を止めて立ち尽くした。
 視線を釘付けにしたのは女の向こう、ペンキをひっくり返したかの様にぶち撒けられた大量の赤と、肉の塊。「それ」は腕や足が?がれ、内臓が食い破られ、腸が飛び出していた。最早男か女かも判然としない。
 正気の沙汰ではない。
 ヴァンパイアは生きたものの血しか飲む事ができない。死骸の血はヴァンパイアにとっては毒なのだ。
 要するに、生きたまま内臓を食い散らかしたという事だ。
 どうしたらこんな悪魔の様な所業が行えるのだろう。
 リオは竦む両脚を叱咤し、がくがくと震える女に近付いた。どうやら腰が抜けているらしい。身なりから察するに女は恐らく娼婦で、娼館に戻る途中で運悪く遭遇してしまったのだろう。ヴァンパイアが食事を終えた後だったのが幸いだった。食事の最中であったら、彼女も襲われていた事だろう。
「もう大丈夫」
 彼は屈んで、剥き出しの彼女の肩に自分の上着を掛けてやり、腕にしがみつく彼女を伴って立ち上がった。よく見れば未だ歳若い、少女といっても過言ではないあどけない女だった。
 娼館まで送り届けると、幾らか安心したのか、出迎えた娼婦たちに抱きつくなり彼女はわっと泣き出した。
「有難う、お優しい殿方。クレアに代わって礼を言います」
 出てきた女主人が深々と頭を下げた。気品溢れる優雅な女性だった。重ねた齢が少しも欠点にならず、逆に彼女の魅力を引き立たせている。
 リオは会釈を返して、立ち去ろうとした。
「お待ち」
 女主人が引き止める。
「もう直き夜が明ける。それまで此処にいなさい」
 すると、娼婦のひとりが寄ってきた。
「そうよ、外は危険だわ。あんたはクレアの恩人だもの。休んでいってちょうだい」
 リオはそっと女を制し、女主人に向けて首を振った。
「いいえ。お心遣いだけ頂きます」
「そうかい。気を付けてお行き」

 じわじわと東の稜線を侵食しはじめた陽の光に目眩を憶える。空き家となった建物の地下倉庫にリオが転がり込んだのと、凶悪な太陽がその姿を現したのは殆ど同時だった。彼は部屋の隅に身体を横倒え、丸くなる。首の後ろがひりひりと痒い。
 この街に、自分以外のヴァンパイアがいる。
 それも酷く凶暴な、殺人鬼じみたヴァンパイアが。
 普通なら、あんなに酷い匂いはしないのだ。あんなに凄惨な死体も残らない。例え死ぬまで血を吸ったとしても、残るのは幾つかの小さな噛み痕とミイラの様になった身体だけだ。
 第一、あれだけ派手に出血させてしまったら、飲める血の量は限られてしまう。
 狂ってる。
 あれは虐殺だ。
 あのヴァンパイアは血を飲む事が目的なのではなく、虐殺を楽しんでいる。
 リオはおぞましさに身震いし、ぎゅっと身体を抱き締めた。

 息を潜めて太陽が沈んでいくのを待つ。地獄の様な時間は、永遠に終らないかに思えた。瞼を閉じればあの光景が蘇り、吐き気を誘発して眠りに堕ちる事を許さない。リオは饐えた胃液が込み上げる度に必死にそれを飲み下し、懸命にシーエの手を思い起こす。そうする事で、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻せる気がした。
 吐いてしまう訳にはいかない。
 きっと暫く教会へは行けないだろうから。出没しはじめたヴァンパイアハンターの数と腕がどの程度のものかは知らないが、教会には恐怖に陥った人々が殺到しているに違いない。そんな状況では精液の供給など望むべくもない。このままじっとしていれば一週間位はもつ。その間にほとぼりも冷めるだろう。
 だから、吐く訳にはいかない。
 何度目とも知れない嗚咽を、奥歯を噛み締めてやり過ごしながら、一方でけれど、と思う。
 あのヴァンパイアがまた誰かを襲ったら?
 あいつは殆ど血を飲んでいない。残された血溜まりの量が物語っている。腹も狂気も満たされていない。
 あいつは間違いなく、また誰かを襲う。
 ハンターを嘲笑うかの様に、屍の山を積み上げる。
 もしも、人々が逃げ込んだ教会が標的にされたら…?
 あそこは安全じゃない。集まっている所を襲われたらひとたまりも無い。
 美しい聖堂が血の海と化す様を想像してしまい、リオは再び吐き気を催した。
 不安になって居ても立ってもいられず、彼は陽が落ちるのを待って地下室を飛び出した。教会に入るつもりはなかった。シーエと逢うつもりも。ただ外から様子を窺って、無事を確かめられればそれでよかった。
 だが、予想に反して教会は閑散としていた。人の気配も血の匂いもしない。リオは不審に思って聖堂の扉を押した。法衣を身に纏ったシーエが、ただひとりで最前列の長椅子に腰掛けていた。
 扉の軋む僅かな音と舞い込んできた風に、彼は顔を上げ、振り返る。




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