「ちょっと失礼するわね」
 暫くして、彼女は飲みかけのグラスを残して席を立った。ひとりになったクローヴィスは、不意に自分に向けられた視線に気付いた。不審に思いながらそっと辺りを窺う。
 異質な気配を放つ視線の主は暗がりの中でも直ぐに見つかった。背後の壁際に彼はいた。彼はクローヴィスと眼が合うと、背を預けていた壁から離れ、腕組みをほどいて近付いてきた。
 同業者だという事は直感で判った。悪目立ちする事も無く上手く溶け込んではいたが、彼の纏う雰囲気は明らかにこの場にはそぐわない。こちらもプロだ。嗅ぎ分ける事など造作も無い。
 微かな警戒心を抱きながら、わざわざこんな所で何の用だろうと思ったその時だった。手を伸ばせば届く位置まで接近した所で、突然腹に衝撃が走った。
 眼の前の男が、彼に身体を寄せる様にして刃物を繰り出したのだった。クローヴィスは息を詰め、身を屈めた。声を出そうとしたが、空気が喉を掠めただけだった。
 男は彼の体内に得物を残したまま、手を引いた。すっと離れ、遠ざかっていく。鮮やかな立ち居振舞いだった。無駄な動きが何ひとつ無い。
 クローヴィスは重心を後ろに傾けた。前に倒れれば、刃が更に突き刺さる。
 直ぐにバーカウンターにぶつかった。縋るものを求めて闇雲に宙を仰いだ手が、カウンターの上のグラスを払い落とす。何も掴む事はできなかった。最早立っている事もままならず、そのまま屑折れていく。
 カウンターから転がり落ちたグラスが砕け散る音に反応したのか、漸く異変に気付いた周囲で悲鳴が上がった。化粧室を出たベアトリーチェにもそれは聞こえ、ぎょっとした彼女は何事かと足早に廊下を引き返した。
 喧嘩かしら、と場内をぐるりと見回す。何やらつい先程まで自分のいた辺りが騒がしい。状況を把握しようとして、ふと気が付いた。
 クローヴィスの姿が見えない。
 人々を掻き分ける様にして進んでいく。思い描いていたよりも随分下の方に彼の姿を見つけた彼女の眼に次に映り込んだのは、腹部を染める不吉な赤い色だった。彼女の手からハンドバッグが滑り落ちる。
「クローヴィス!!」
 ベアトリーチェが叫ぶ。駆け寄った彼女に、クローヴィスは薄らと開けた眼を上げ、無理に笑ってみせた。だが直ぐにそれは歪み、彼は何度か咳き込みながら喘いだ。
「何があったの、誰にやられたの」
 狼狽えるベアトリーチェの問いには答えずに、小さく首を振る。判らない、では無く、言いたくない。
「あんた捜査官だろ。何て顔…してんだよ」
 彼女を落ち着かせようと、彼は再度笑みを浮かべようとする。
 痛みを堪えながら、やはりこのライブに出演したのはまずかったかと思った。あの男が何者なのかは知らない。だが、クローヴィスが生きている事を知った黒幕が新たな刺客を送り込んできたのかもしれない。ベアトリーチェが知っていた位だ、クライアントにこのライブの事が知れたとしても可笑しくはない。
「待ってね、直ぐに救急車呼ぶから」
「呼ばなくていい」
 頼むから大ごとにしないでくれ。
 放り出した鞄を引っ掻き回して携帯電話を捜すベアトリーチェに、相変わらず苦しげな息の下で言い放つ。彼女は血相を変えて振り返った。
「馬鹿言わないでよ。そんな訳にいかないでしょ!!死にたいの!!」
 彼女が声を荒げる。
「死なないよ」
 彼は腹に突き刺さったままのナイフの柄を掴んだ。そして、彼女が止める間も無く、力任せに左脇腹からそれを引き抜いた。噛み締めた奥歯の間から押し殺した低い呻き声が洩れる。気が遠くなりそうだった。
 傷口から一気に溢れた血は留まる所を知らないかの様に、きつく押さえた手の指の間から流れ出した。赤い染みはみるみる内に広がっていき、ベアトリーチェは出血の多さに目眩を憶えた。失いそうになった意識を持ち直し、クローヴィスは虚空を睨む。
 死ぬ訳にはいかない。こんな所で死ぬ訳には。
 けれど、クライアントに生存が知れているのだとしたら、これ以上騒ぎを大きくする訳にもいかない。
 だから、行かなければ。此処にいてはまずい。何処でもいい。何処でもいいから、とにかく身を隠さなければ。
 ごめんね、ベアトリーチェ。
 彼は声には出さずに呟き、ナイフの柄で彼女のみぞおちを突いた。小さく呻いて倒れた彼女を肩で受け止める。
「ごめん…」
 もう一度謝罪する。
 でも、こうでもしないと君は行かせてはくれないだろうから。助けなら自分で呼ぶ。中条の所へ行くか、レスタトを呼べばいい。
 彼女をその場に残し、クローヴィスは壁に手をついて立ち上がった。出血の所為で身体に力が入らず、頭がくらくらする。それでも彼は覚束無い足取りで建物を出た。
 外は殆ど闇に近かった。今夜は月が無い。駐車場に出た彼は瞬きをして眼の霞を払い、停めてある愛車へと向かった。
 その足が、幾らも行かぬ内にぴたりと止まる。瞳がこれ以上無い程に見開かれる。
 自分の眼を疑わずにはいられなかった。彼の視線の先、闇に溶け込む様にしてひっそりと、それでいて圧倒的な存在感を纏って、ルカがそこに立っていた。
「ルカ…」
 クローヴィスは凍りついた様にその場に立ち尽くした。
 どうして彼が此処にいる。
「おやおや、随分と酷い有様だね」
 クローヴィスの視線を受け止めながら、ルカが口を開いた。彼は鮮血に染まったクローヴィスの腹を見ても、顔色ひとつ変えなかった。
 その瞬間、何もかもがどうでもよくなった。どうしようも無く翻弄される。声を聞いただけで、他の事がすっかり考えられなくなる位に。再逢の衝撃と彼への感情は痛みすらも凌駕した。それなのに、その感情はいつだって、憎しみというよりは悲しみに似ている。
「触るな」
 近付いてくるルカを拒絶する様に後ずさる。ルカは彼の方へ伸ばした手を空中で止めた。代わりに上半身を傾けて、クローヴィスの耳元にくちびるを寄せる。
「逢いたかったよ」
 彼は囁いて、嘲る様に笑った。そして再び伸ばした手を今度は止めなかった。顎を掴まれて、逃げようと背けた顔を上向かされる。何かの間違いかと思う程、ルカの顔が間近に迫る。けれど、睨みつける事くらいしかできなくて。
 あぁ、あの夢はきっと、この邂逅の予兆だったのだ。
 お前は私に生かされている。
 嘲笑う声が蘇る。自分は何も変わっていないと痛い程に感じた。思い通りにはならないと誓ったのに、憎みきる事も、拒みきる事もできない。このまま再びルカの手に堕ちるのだろうか。
「放せ」
 違う。俺はあの頃とは違う。
 彼は頭を振って、ルカの手を振り払おうといた。あの頃には戻らない。その意思だけが彼を支えた。しかし、身体は言う事を聞かなくて、身を捩った拍子にぐらりと視界が揺れた。ルカがそれを抱き止める。
 クローヴィスはきつくくちびるを噛んだ。忘れていた腹の傷が疼く。口惜しい事に、もう一秒だって自分の力では立っていられなかった。
「おやすみ」
 遠くにルカの声を聴いた。霞む視界が微かに翳ったかと思うと、急速に光が失われた。
 そして彼はそのまま意識を手放した。


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