リズのいないステージはやっぱり何処か違和感があって、まるで場違いな所に来てしまったかの様だった。それ程大きくはないライブハウスのステージがただただ広く、ミシェルの歌声も客席の物音も、自分の指先が奏でる音さえもが酷く遠い。
 彼女の歌は悲しくて美しくて切なかった。彼女に似て凛としていたが、その強さが悲愴感を際立たせていた。リズの持つ柔らかな歌声とは別の美しさだ。
 弾きながら、やはりピアノを弾く事は大した事ではなかったのかもと彼は思った。打ち合わせやリハーサルを重ねる内に、驚く程すんなりとこの手は昔の感覚を取り戻していった。以前と同じにという訳にはいかなかったが、一線を退いたピアニストの戯れとしては申し分無い。プロのコンサートではなく、これは彼女を慕う者たちが心を慰め合う場なのだ。
 完璧な演奏には程遠い、傷付いた音色が響き渡る。それでも歓声は鳴りやまない。
 現実味は無かった。その代わりに取り乱す事も無かった。そうして、リズと一緒に奏でた曲たちを、別の誰かとまた奏でている。
 この歌は君には届かないけれど。
 だって君はもう何処にもいない。死んでしまったらそこで全てが終りだから。
 きっとこのステージは君の為では無く、俺の為に用意されたものだったのだろう。残された俺が一歩を踏み出し、新たな景色を眼にする様にと。
 いつだって、世界は残された者たちで成り立っている。



 全ての曲目を終えて、ピアノから解放されたクローヴィスはスタンディングのバーカウンターの片隅でひっそりとグラスを掲げていた。傍らにはサイドカー。
 サイドカーは何処から来たか、なんて言葉があるけれど、何処から来て何処へ向かおうと知った事では無い。
 ただ、今夜は君を隣に乗せて。
「なんだ、未だ弾けるんじゃないの」
 唐突に背後から声が掛かった。聞き憶えのある声ではあったが、咄嗟に誰だかは判らなかった。
 カウンターに腕を乗せたまま振り返る。
 そこに立っていたのは随分と長身の女性だった。眼が合うと、彼女は片方の眉を上げてみせた。
「ベアトリーチェ…」
 驚いて二の句が継げないでいる彼をよそに、彼女は笑みを浮かべた。偶然居合わせたという訳ではないらしい。
「久し振りね、Mr.クランツバーグ」
 彼女は進み出て彼の隣に並び、カウンターの向こうのバーテンダーにコスモポリタンを注文した。その横顔を盗み見る。こんな風に再会するとは思わなかった。
 ベアトリーチェは四年前の事件で知り合った警察官で、クローヴィスが彼女について知っているのはそれだけだ。事件の後では随分世話にもなったが、リズが亡くなり、クローヴィスがピアニストを辞めてからは逢っていなかった。
 逢える訳がなかった。彼女は警察官で、彼は殺し屋。どの面下げて逢えというのだ。
「どうして此処に?」
 若干の後ろめたさを感じながらクローヴィスは訊いた。
「貴方がピアノを弾くっていうから確かめに来たのよ」
 ベアトリーチェは悪戯っぽい表情で勝ち誇った様に言った。
「元気そうで安心したわ」
 そっと付け加える。お決まりの挨拶か社交辞令の様な自然さだったが、クローヴィスは言葉の端に奇妙な違和感を憶えた。
「でも驚いた。貴方はもう弾かないと思ってた」
 彼女は頬杖をつき、カウンターの奥のバックバーに眼をやりながら呟いた。口調ががらりと変わっていた。
 弾けない、ではなく、弾かない、と言った彼女の言葉に意図があるのかどうかは判らない。だが、クローヴィスの苦悩が判らない彼女ではないから、彼がピアノを辞めた本当の理由もはじめから薄々察していたのかもしれない。
「ちょっとした出来心だよ。これが最初で最後」
 クローヴィスは苦笑しながら肩を竦めた。頬杖をついたまま彼の方へ視線を戻したベアトリーチェが一瞬探る様な眼をしたのを見逃さなかった。
 多分これは殺し屋をやっている内に身に付いた能力なのだろう。相手の表情や仕草の微妙な変化を感じ取る事に敏感になってしまった。別の思惑や裏があるのではないかと妙に勘繰ってしまう。
「ふぅん。いいけど。それより元気だった?」
 とりなす様に彼女は言った。
「見ての通り」
 クローヴィスはもう一度肩を竦めながら、先刻自分で元気そうだと言ったばかりじゃないかと思った。
「ならいいけど」
 彼女はクローヴィスの方に視線を残しながらゆっくりと正面を向き、コスモポリタンのグラスを揺らした。赤い液体が彼女のくちびるに流れていく。どうにも今日の彼女は歯切れが悪い。
「もう四年か…。早いわね」
 静かにグラスを戻した彼女が言った。
「そうだね」
 彼は伏し目がちに相槌を打つ。彼女が何か言いたそうな事には気付いていた。
 彼が自分からは喋りそうもないと諦めたのか、彼女はやがて溜め息をひとつついた。


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