翌日、ミシェルから再び電話が掛かってきた。携帯電話を取り上げる。 「昨日はごめんなさい!!」 耳に宛てるなり、クローヴィスが何か言うより早く、ミシェルの緊張した声が飛び込んできた。 「貴方の気持ちも考えずに、わたし、勝手な事ばかり…」 「いや、いいんだ。俺の方こそ言い過ぎた。ごめん」 素直に謝罪する。沈黙が流れた。それが余りに長い沈黙だったので、彼は電話を一度耳から離し、まじまじと画面を眺めて通話が途切れていない事を確認しなければならなかった。 「ミシェル?」 こちらには何の影響も無いけれど、電波でも悪いのだろうかと首を傾げる。 そうではなかった。 「あ、ごめんなさい。てっきり罵られるものと思っていたから…」 ミシェルは動転した様子で慌てて言葉を繋いだ。クローヴィスの予想外の態度に驚いて言葉を失っていたらしい。レスタトのお陰ですっかり元の調子を取り戻した彼は、彼女の反応に思わず破顔した。 「罵った方が良かった?」 「まさか。やめてよ」 からかう彼に、彼女は怒った様に言いながら笑った。 再び沈黙。今度は、彼女が躊躇っているのが吐息から感じ取れた。 「昨日の事なんだけど…」 「いいよ」 おずおずと切り出した彼女の言葉を最後まで待たずに告げる。彼女は一瞬それがどういう意味の「いいよ」なのか判らなかったらしかったが、やがて自信無さげに呟いた。 「本当に?」 「気が変わった。俺でいいのなら」 「貴方がいいに決まってるじゃない!!」 彼女は興奮気味に、嬉しそうに叫んだ。 「でもあんまり期待しないでくれよ。がっかりさせたくないから」 クローヴィスは苦笑した。 今更ピアノを弾く事への照れ臭さと、拭い切れないほんの少しの恐怖と。 本当に俺でいいのだろうか。眼を背けて逃げ続ける事しかできなかったこの俺で。 その夜、ベッドに入って横になりながら、クローヴィスはどうにも落ち着かない刻を過ごしていた。 眠れないまま、時間だけが過ぎていく。リズの事ばかり考えていた。 君はもう歌えないのに、俺だけが未だ弾き続ける。 そんな事はできないと、ずっと思っていた。だって君は、俺の所為でいなくなってしまったのだから。 君を殺したのは俺だ。 でも、何かが変わる気配がある。もしかしたら、そう、レスタトが言う様に大した事じゃないのかもしれない。俺が思っている様な変化は訪れないのかも。ピアノを弾こうが弾くまいが、君のいないこの現実も、この罪も決して変わりはしないのだから。 それでも、変わらない事で何かが俺を変えるかもしれない。 ねぇ、リズ。君のいないステージで俺は弾けるのかな。 考えても仕方の無い、答えの出ない思考を繰り返している内に、いつの間にかまどろんでいたらしい。どれ程の間眠りに堕ちていたのかは定かではないが、ほんの一瞬思考回路が途切れた様な気がする。 そのまま深く堕ちてしまえなかった事に苛立ちながら、クローヴィスはのそりと寝返りを打った。もう一度眠りにつこうと眼を閉じる。 その時だった。 不意に闇の中から音も無く影が伸びてきて、彼の上を覆った。ひんやりとした手が喉に宛てがわれる。 咄嗟に逃げようとしたが、どういう訳かいとも容易く全ての身体の動きを封じられた。抵抗らしい抵抗もできないまま、直ぐ傍まで吐息が迫る。誰と思う間も無かった。 「お前は私に生かされている。私の手を離れては生きてはいけない」 嘲笑うかの様な声。 苦しいと思った時には身体の上に馬乗りになられて、首を絞められていた。 身体が動かない。 息ができない。 声が出ない。 クローヴィスは辛うじて動く腕を上げ、恐ろしい力で絞め上げるその腕を引き剥がそうといた。けれど、上から押さえつける手は少しも緩まない。 殺される。今度こそ殺される。 指が喉に食い込む。圧迫されて頭に溜まった血液が血管を破裂させそうだ。 遠くなりそうな意識の中で終りを感じた。 「っ!!!!!」 不意に喉が解放されて、クローヴィスは大きく息を吸い込み、びくりと身体を震わせて飛び起きた。 そこには誰もいなかった。人のいた気配も無い。喘ぐ様に激しく肩を上下させながら、首に手を宛てる。 あの手の感覚が未だ残っている。 彼は首を押さえたまま、暫く茫然と闇を見つめていた。 最近どうにも夢見が悪い。 一体何の前触れなのだろう。 俺は、生かされている…? 耳元で囁かれた言葉を思い出し、また震える。とっくに過去になったはずの記憶が蘇る。 確かに生かされていたあの頃。全てを支配されていた。 今は違う。それが嫌であの人の元を離れたのだ。最後に逢ったのがいつだったかも思い出せない程に、随分長い事顔を合わせてすらいない。 だから、今は違う。 俺はもう、あの頃には戻らない。 そう強く言い聞かせてみたけれど。 だったらどうして震えが止まらないのだろう。 俺は何に怯えているのだろう。 >>Next |