「おかえり」
 部屋のドアを開けると、いつもと変わらぬ陽気なレスタトの声が中から飛んで来た。帰り道を辿るクローヴィスの足取りは終始重かったが、少し肌寒い夜風に吹かれたお陰で、マンションに着く頃には幾らか気分は良くなっていた。
「うん、ただいま」
 彼は答えて、そっと表情を緩めた。明るい部屋に帰り、レスタトの顔を見た瞬間何だか無性にほっとしたのだ。まるで悪い夢から醒めた様な、そんな感覚。
 脱いだジャケットをソファの背に掛け、冷蔵庫からミネラルウォーターを取ってくる。リビングに戻ってきた彼を、ソファに腰掛けたままレスタトが見上げた。
「どうした?」
 穏やかに微笑みながら、レスタトは言った。クローヴィスは驚いて思わず眼を見張った。
 飄々としている様でいて、こういう時のレスタトは異常に勘がいい。それ程酷い顔はしていないつもりだったが、ほんの僅かの内に彼はクローヴィスの異変を敏感に感じ取った様だった。
 だが、干渉や詮索を嫌うクローヴィスが、何故かこの時は不快感を抱かなかった。レスタトは決して無理に聞き出そうとはしないし、変に気を回して誘導尋問じみた真似もしない。話す事を強要しないのに、ただ迷いと躊躇いだけを取り除いて、胸の内にある感情を何の抵抗も無く吐き出させてしまう。
 クローヴィスはふっと愁眉を開いて、溜め息に似た苦笑を洩らした。促された訳でもないのに引き寄せられる様に空いたソファに腰を下ろすともう、はじめから話すつもりでいたかの様な気分になっていた。
「ピアノ、弾いてくれって言われた」
 薄く笑みを浮かべた彼は抑揚の無い声で言った。
「で、断って来た」
 煙草を取り出し、火を点ける。レスタトが黙っていると、彼は続けた。
「随分長い事捜してたらしいけど、全くどんな情報網使って捜し当てたんだよ。リズの追悼ライブ?彼女の名前を出せば俺が首を縦に振るとでも思ったのかな」
 クローヴィスは早口で言って、肩を竦めた。茶化す様に笑う姿が何処か痛々しかった。
「どうして断っちゃったのさ」
 漸くレスタトが口を開くと、彼は少しだけ険しい表情で顔を上げた。まるで愚問だとでも言いたげに、微かな非難の色を湛えて。
「今更出てって何になるっていうんだよ」
 自分はもう過去の存在だ。ピアノはもうきっぱりと諦めた。このまま、忘れ去られたままでいい。
「頑固だなぁ。何になるとかならないとか、そんなのどうだっていいじゃん」
 レスタトは頭の後ろで両手を組んで笑った。冗談めかして言いはしたが、本心でもあった。どうしてクローヴィスはこんなにも頑なに自身にピアノを禁じるのだろう。ピアノを弾く事をやめた所で、心に負った傷は癒えはしないというのに。
 不意に、顰めっ面をしていたクローヴィスが小さく吹き出した。レスタトが怪訝そうに視線を投げる。
「彼女と同じ事を言うんだな」
「同じ?」
「頑固だって言われたよ」
 さも可笑しそうに言う彼に、今度はレスタトが顔を顰めた。
「誰だってそう思うよ」
 ひとしきり笑った後で、クローヴィスは笑った時と同じ位唐突に表情を曇らせた。瞬きをする振りをして眼を背ける。
「もうピアノは弾かない」
 声を押し出す様に苦しげに告げる。しっかりとした口調だったけれど、呟いた彼の瞳には傷付いた様な、痛みを伴う様な戦慄が浮かんでいた。
「思い出すから?」
 控えめに問い掛ける。彼は静かに首を振った。視線は膝の上で組み合わされた両手に注がれている。
「そうじゃない」
 そんな事を言ったら、ピアノを弾く弾かないに拘らず、リズを思い出さない日なんて無い。悲しみと憎しみを忘れた日も。
 そうじゃない。そうじゃなくて…。
「この手はもう、殺し屋の手だから」
 組んだ両手の指先をぎゅっと握り締める。レスタトは何も言わなかった。その一言で理解できてしまったから。頑なだった訳でも、意固地になっていた訳でも無く、彼はただずっと恐れていたのだと。
 クローヴィスは両手をほどいて、服の上から左腕を押さえた。
「本当は怪我なんて口実さ。そりゃ勿論、前の様には弾けないだろうけれど、この怪我が無くても俺はピアノを辞めてたよ。決めたんだ、殺し屋になる時に。拳銃を持つ同じ手でピアノは弾かない」
 彼は俯きがちにそう言って、また笑った。諦めは滲んでいたけれど、そこに迷いは感じられなかった。
 レスタトの頭をふと不安が過る。そうまでして、ピアノを捨ててまで殺し屋になって、目的を果たしたその後には一体何が残るのだろう。
 彼は快楽殺人者ではない。ビジネスだと割り切っていても、ターゲットに罪が無いと判断すれば依頼を受けないし、相手がどんなに極悪非道な人間だとしても、命を奪う事に罪の意識を感じずにはいられない。それでこの仕事が正当化できる訳では到底無いけれど。
 今は目的を果たす為に手段を選ばないだけで、目的が無くなってしまったら、彼はきっと殺し屋ではいられない。そういう危うさが彼にはあるのだ。
「殺し屋の手、か」
 レスタトは自分の掌を見つめた。余り考えた事は無かった。考えない様にしていたのか、いつの間にか麻痺してしまったのか、今となっては判らない。彼には拳銃を手にする代わりに捨てたものなど無かったし、復讐が目的でもなければ、殺し屋になる他に選択肢が無かったのでもない。法が野放しにしているから自分が手を下している、それだけだ。その分、実際クローヴィスよりずっと割り切っている。
「確かにそうだね。沢山の命を奪ってきた手だ」
 レスタトの声は静かで優しかった。
「でも怪我が理由じゃないって言うなら弾けよ」
 不敵とも言える表情を浮かべた彼に、クローヴィスは一瞬唖然とし、次に渋い顔をした。
「あのさ、俺の話聞いてた?」
 彼は呆れた様に言った。そんな彼の一瞥を、レスタトは大胆に笑って受け流す。
「聞いてるよ。大丈夫、お前の恐れてる様にはならない」
「恐れてる?」
「怖いんだろ?ピアノを、ひいてはリズの思い出を穢してしまうんじゃないかって」
「………」
 その通りだ。だからピアノを辞めた。腕の故障は実に都合が良かった。悲劇のピアニストなんて祭り上げられるのは不本意ではあったが、世間はそれで納得してくれた。
 本当は、ただ怖かったのだ。怪我による技術的な衰えよりも何よりも、血に染まったこの手でピアノを弾く事が。
「その程度の事で揺らいだりしないだろ?リズの為の歌なら、やっぱりお前が弾かなきゃ」
 微笑むレスタトは何処までも優しかった。
 揺らいだりしない。そうなのだろうか。そんな風に思ってもいいのだろうか。
 泣くのにも笑うのにも失敗した様な顔でクローヴィスは俯いた。
「未だ弾けるかな、ピアノ…」
 細い声で呟く。
「さぁねぇ、何しろブランク長いからね」
 レスタトは言いながら、どうしてこんなにも傷付いた様な響きで、彼はピアノという単語を発音するのだろうと思った。


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