二 有刺鉄線


「悪いけど、もうピアノは弾かない」
 薄暗いバーの一角で、クローヴィスは俯きがちに、しかしはっきりとした口調で言った。隣には、はじめて逢う女性。
 彼女から突然電話を貰ったのが数日前。ピアノを弾いて欲しいと言われた。聞けば彼女は、歌手になりたくてジャズバーや小さなライブハウスで歌っているのだそうだ。その演奏を彼に頼みたいという事だった。
 勿論、クローヴィスは一も二も無くその場で断った。逢う気も無かった。だが、どんなにピアノを弾くつもりが無い事を伝えても、彼女は引き下がらなかった。その熱意に気圧される様な形で渋々逢う事を承諾しはしたが、やはり気持ちは変わらなかった。
「貴方じゃなきゃ駄目なの」
 ミシェルと名乗ったその女性は感情に訴えかける様に声を震わせた。それが意外だったので、クローヴィスは微かにたじろいだ。
 彼女は電話の声の印象そのままに、朗らかで凛として、芯の強そうな女性だった。例えるなら菖蒲といった所だろう。そんな彼女がこんな風に切々と感情のままに懇願するとは思わなかった。
「ごめん…」
 クローヴィスは眼を伏せて首を振った。それしか言えなかった。はじめから断るつもりで、諦めて貰うつもりで此処へ来たはずだった。
 俺にピアノを弾いて欲しいなどと、二度とそんな気を起こさない様に。
 だが、一度怯んでしまうともう、冷徹なまでに淡々と突き放す事はできなくなっていた。
 それでも、何を言われても変わらない。もう、ピアノは弾けない。
 視界の隅でオレンジ色が動く。ミシェルはミモザのグラスに手を伸ばし、軽く顎を上げてそれを口に運んだ。クローヴィスの前に置かれたジントニックは殆ど口を付けられないまま、氷だけが溶け出して。
「彼女の追悼ライブなのよ」
 ミシェルはグラスを持ったまま、幾らか落ち着いた声で言った。思わぬ言葉にクローヴィスは弾かれた様に顔を上げる。彼女が何を言おうとしているのかは直ぐにピンときた。信じられないという様に彼女を見つめる。
「リズの…?」
 口にした瞬間、胸が痛んだ。
 大切だった、もういなくなってしまった人。
 そうか、リズがいなくなってもう直ぐ四年になるのか。未だ彼女を憶えていてくれた人がいたなんて。
 俺の存在もリズの存在も、とうに忘れ去られているものだと思っていた。
「知らなかったでしょう?毎年やっているのよ」
 ミシェルは淋しそうに微笑んだ。
「本当は去年も貴方を呼びたかったのだけれど、居所が判らなくて間に合わなかったの」
 そう言って軽く肩を竦める彼女に、クローヴィスは何と言っていいか判らず困惑した表情で見つめ返すしかなかった。
「だからお願いよ。貴方に弾いて欲しいの。やっぱり貴方じゃなきゃ駄目なの」
 彼女は彼の方に身体を向け、必死の形相で言った。クローヴィスはくちびるを噛んで視線を逸らした。彼女がリズを憶えていてくれたとしても、それでも首を縦に振る事はできなかった。
「もう弾けないんだよ。君だって知っているだろ。俺の腕はもう…」
 諦めを含んだ皮肉めいた笑みを浮かべた彼の眼差しは、知らず左腕に注がれる。四年前のあの事故で彼が腕を負傷した事は、勿論ミシェルも知っていた。
「そんなの嘘よ。貴方は未だ弾けるわ」
 ミシェルの声は殆ど叫ぶ様だった。彼女には彼がピアノを辞めた理由が、腕の傷というよりは心の傷によるものだと思えてならなかったのだ。
 突然、クローヴィスはガタンと音を立てて立ち上がった。
「もう弾きたくないんだよ。もう触りたくない」
 彼は低い声で言って、ほんの一瞬彼女を睨み付けた。決して怒鳴るではなかったが、押し殺した何かがそこに迫力を添えていた。
 押し殺そうとして、隠し切れずに滲み出たモノ、それは多分、怒りと痛み。
 彼の視線は直ぐに通り過ぎ、グラスから滴る水滴で湿ったコースターの横に乱暴に紙幣を置くともう、彼女を捉える事は無かった。
 だが、くるりと背を向けて歩き出すその瞬間に彼の眼差しが歪められるのを、彼女は見てしまった。
「どうしてそんなに頑ななの」
 拒絶を貼り付けて遠ざかる背中に向かって問い掛ける。
 クローヴィスは振り返らなかった。そのまま足早に店を出た。
 吐き気がする。
 どうして弾けるだろう。この手はもう血に塗れてしまったというのに。
 こんな穢れた手では弾けない。
 俺は、穢したくない。


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