「クローヴィスも珈琲飲む?」
 三日目の朝、椅子に座って寛いだ様子で賃貸雑誌を広げていたクローヴィスに、キッチンからレスタトが声を掛けた。
「うん」
 クローヴィスは雑誌から顔を上げずに答えた。此処へ来てからというもの、彼はずっと雑誌と睨めっこをしている。
 垂れ流しのテレビからは相変わらず当たり障りの無いニュースや天気予報が流れており、この二日間の間にも彼らの周りで別段変わった事は無かった。世界は何事も無かったかの様に平穏だ。
「そんな慌てて捜す事無いのに。少しゆっくりしてったら?」
 両手に珈琲の入ったカップを持ったレスタトは、背後から雑誌を覗き込む様にしてクローヴィスの後ろを通り過ぎ、ダイニングテーブルに彼の分の珈琲を置いた。そのままテーブルの反対側へ回り、向かい合う様に座る。クローヴィスは有難うと口の中で呟いて、湯気の立つカップに手を伸ばした。
「そういう訳にはいかないだろ」
 新しい部屋が見つかるまで当面は此処に居候する事になるだろうが、長居するつもりは無かった。この部屋やレスタトに不満がある訳では無い。それでもやはり、ひとりがいい。此処にいる間にまたあの夢を見て、魘されでもしたら堪ったものじゃない。
「まぁ、つれないわね〜」
 両手で包み込む様にカップを持ちながら、レスタトが口を尖らせた。彼は此処の所ずっとこの調子だ。最早いちいち相手をする気も無くして、クローヴィスは手元に視線を落としたまま黙殺した。
「何がそんなに問題だって言うのよ。なんならずっと此処に住めばいいじゃない。ふたりでもっと広い所に引っ越したっていいし」
「馬鹿言うな」
「そんなにあたしの事が嫌なら嫌ってはっきり言いなさいよ」
 尚もひとりでぶつぶつ呟きながら、レスタトは買って来たばかりの新聞を広げた。朝食の後で珈琲を飲みながら新聞に眼を通すのが彼の日課だった。
 それきりふたりは黙り込み、暫くの間部屋にはテレビから流れる音しか存在していなかった。純粋な音に混じってアナウンサーの声も流れていたが、彼らにとっては全部ひっくるめてただの音でしかなかった。
「あ…」
 社会面を読んでいたレスタトが不意に声を上げた。
「?」
「載ってるわよ〜」
 僅かに身を乗り出す様にして、レスタトが紙面に顔を近付ける。
「お前、それ癖になってんだろ?」
 クローヴィスは記事には見向きもせずに、呆れた様な顔でじろりと彼を睨んだ。
 レスタトが読んでいたのは、マンションの一室で男性の遺体が発見されたという、文字だけの小さな記事。紙面の下の方で、クローヴィスの殺害事件は小さな記事になっていたのだった。殆どの人が読み飛ばしてしまうであろう、どうでもいい様な事件が犇き合う三面記事の片隅でひっそりと。
 クローヴィスは顔を上げて損をしたとでもいう様に、何の感慨も無さそうに雑誌に視線を戻した。わざわざ読む程のものではない。そんなものだろうと最初から思っていた。
 彼は物理的な命の儚さも、社会的生命の儚さも、そしてその記憶の儚さも知っている。ピアニストを辞め、表舞台から姿を消した時点で社会から抹殺されたも同然だ。最早「クローヴィス・クランツバーグというピアニスト」の存在は人々の記憶から消えかけている。そもそもあのマンションは偽名を使って借りていたから、殺人事件の被害者と元ピアニストが繋がる事は無いだろう。表社会の人間の眼には、見ず知らずの一般人が殺されただけの些細な事件にしか映らない。
 良くも悪くも、人がひとり死んだ位ではどうもしないのだ。毎日、誰かが何処かで死んでいく。それが事件なのか事故なのかすら、誰も気に留めない。
 だからこそ、新しく踏み込んだこの闇の世界でこうして生きていられる。
 裏社会の住人たちは日の光の下で表社会の人間に紛れて生きているし、表社会と裏社会には明確な境目など無い。メビウスの輪の様に気付かない所で交錯する。
 人の生き死には儚く、時に残酷な程呆気無い。全ては泡沫。
 そうして直ぐに忘れ去られて、はじめから存在していなかったかの様に世界は回り続ける。めまぐるしく、けれど何処か鬱屈と。


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