一 The Dawn


 歌声が響いている。
 薄暗くて静かな空間に、澄んだ女性のアルトが。満員の客席は不気味な程静まり返っていて、彼女の美しい歌とピアノの旋律以外に、音は存在していないかの様だった。
 この場所を俺は知っている。この場所を、この光景を、この音色を、そしてこの後に何が起こるかを。
 それなのに、何かが違っていた。俺の知っているものとは何かが決定的に。
 静かすぎるのだ。人の気配すら感じない程に。
 彼女の後方でピアノを弾いていた俺は余りの静寂にふと顔を上げた。
 知っているはずの景色が一変していた。いつの間にか、客席は空っぽになっていた。
 いや、空っぽでは無い。ひとりだけいる。二階席の一番後ろの席にゆったりと腰掛けていた人影がゆらりと立ち上がる。手には銃。こちらに狙いを定める男の顔が、俺には見えた。引き金を引く瞬間の、くちびるの端だけで微かに笑う様子まではっきりと。



「……っ!!」
 声にならない悲鳴を上げて、クローヴィスは眼を醒ました。辺りは未だ暗くて、気温はそんなに高くない。それなのに、飛び起きた彼は酷く汗をかいていた。身体に纏わり付く嫌な汗。
 気を落ち着かせようと荒い呼吸の合間に深呼吸をしながら、部屋の中を見渡す。
 紛れも無く自分の部屋だ。何も変わっていない。そう確認して、クローヴィスは汗の滲む額に手を宛て、眼を閉じた。
 未だ心臓は高鳴っていた。あの夢を見るのははじめてでは無い。それでも、何度見ても一向に慣れる事のできない悪夢。あの男の歪んだ笑みが脳裏に灼き付いて離れない。
 銃を持った男はルカの顔をしていた。そんなはずは無いのに。そんなはずは無いと判っているのに、繰り返される悪夢にどちらが真実なのか判らなくなりそうになる。
 クローヴィスはベッドから降りて立ち上がった。あの夢を見た後はもう眠れない。
 彼はそのまま汗を流す為にバスルームに向かった。脱いだ服を洗濯機に放り込み、バスルームに足を踏み入れる。勢いよく蛇口を捻って出した湯は、彼の身体を幾らか解きほぐしてくれはしたが、表情は強張ったままで。
 鏡に映し出された全身が否応無く眼に入る。強めに出したシャワーを頭から浴びながら、彼は暫くの間鏡越しに自分の身体に刻まれた傷痕を眺めていた。
 だがやがて、左腕に視線を落とす。そこには、今も残る無残な傷痕が。肘から下にかけて広がるそれは、何度も夢に見る三年前のあの事件で負ったものだ。そして、彼がピアニストを辞めた原因。
 それ自体はもう痛む事は無い。だが、精神の方は時折悲鳴を上げる。あの夢を見るのはその所為だ。まるで何かの呪縛の様に、それは忘れた頃にやってきて、治りかけた傷は再び真っ赤な血を吹く。
 眼には見えないその赤が、どれ程の痛みを伴うのかも知らずに。
 クローヴィスはくちびるを噛み、軽く持ち上げていた左手を強く握り締めた。どうしようも無く湧き上がる衝動を押さえ込む様に。筋が浮かび上がる代わりに、皮膚が奇妙な形に蠢いた。
 シャワーを止めてバスルームを出る。濡れた髪から滴る水滴の音は、彼に人を殺す瞬間を思い起こさせた。銃弾を撃ち込まれた獲物の腹から飛び散る血の音によく似ている。
 クローヴィスはそんな事を取り留め無く考えながら、水滴が落ちない程度にタオルで髪を乾かし、下着と黒いパンツを身に付けてバスルームを後にした。少しだけ、気分は落ち着いていた。彼は湿ったタオルをひょいと右肩に掛けてキッチンへ向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出した。裸のままの上半身は、細いのだけれど程よく筋肉のついた無駄の無い体つきをしている。その肩の後ろ、肩甲骨の上あたりに、タオルに隠れる様にして大きな火傷の痕があった。
 彼が冷えたミネラルウォーターをボトルから直接飲んでいると、不意に低い唸り声が聞こえた。
 リビングのテーブルの上で、音を消した携帯電話が震えながら唸っている。


>>Next
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -