怜奈はその日に至るまでの16年間、至って真面目に生きてきたつもりだ。目立つことを好まず、法に反するような行いはせず、おとなに見つかれば反省文を書かされることになる程度のことしかしてこなかった。それがある一時の衝動でせき止められ、全く異色な思考が流れ始めたのはちょうど、梅雨のうっとうしい湿気が引き始めた頃だ。長期休暇を目前に浮かれていたとか、退任した生徒指導の先生の後任がちょろいやつだったとか、まわりがどんどん派手になっていっていたとか、挙げきれないくらいの理由があって、そしてその全てが怜奈の本心ではなかった。
 夏を肌で感じられるようになったころ、怜奈は期待とうしろめたさで過敏になった肌に穴をあけた。右耳の耳たぶの中心より少し下の位置にひとつ。髪を結ばなければ誰も気が付かない程度の、なんてことない、小さくて清潔なピアスホールだった。それでやめにしておけばよかったのだと気が付いたのは7月の20日、夏季休暇前日行事が行われた日の夜、怜奈の肩につかない長さの前下がりボブから見事に色が抜け落ちてからだった。
 怜奈の両親は感情的にそれを責めた。年老いてからようやく授かり、まともに育て上げてきたはずの一人娘が道を踏み外したと憤り、困惑し、怜奈を叱りつけた。怜奈ははじめその剣幕と部屋に籠った熱気にあてられて、叱られるがままに彼らの文句を受け入れていた。だが、長引くにつれてピアスやハイトーンの髪とは全く関係がなくなってゆく説教、順調に上昇を続ける室内温度、16歳の多感な堪忍袋の緒が擦り切れるのは早かった。
 空となった頭の中で弾けた衝動にまかせて、怜奈は家を飛び出した。思春期にありがちな反抗と言えば聞こえはいいが所謂家出である。何も考えずに飛び出してきたせいで、財布も、携帯も、音楽プレイヤーも、食べるものも飲むものも、本当になにも持ってきていなかった。あるのは右耳につけた小さなピアスと、ブリーチしたてのハイトーンのボブカットだけ。身軽すぎて不安になる。冬じゃなくてよかったと思ったけれど、冬だったらたぶんこんなことはしなかった。夏の熱気にあてられてしまったのだ、きっと、ピアスも、ハイトーンの髪も、家出も。夏の夜の熱気は体のなかに入り込み、麻薬のようにすべての感覚を鈍くさせるから。


 吸った息を吐き出すたびにじんわりと嫌な汗が滲んだ。剥き出しの脚や腕に絡みつくような、どこか不気味な生暖かさをはらんだ夜の空気を振り払うように歩みを進める。だれかの体内を歩いているみたいだと思った。ここは小腸だろうか、それともまだ食道?なんにせよもうずいぶん遠いところまで来てしまっていた。水商売をしているような恰好の女や、疲弊し切っただらしのない顔のサラリーマン風の男、派手でだらしなさそうな若い男。多種多様なようで同じ人の群れをすり抜けて進む。ネオンがまたたくにぎやかな道を一人歩いた。
 足がだるくなってようやく歩みを止めると、そこはもう行き止まりだった。いや、行き止りだから歩くのをやめたのだ。物理的に通行を阻まれたわけではない。ただ、行き止りだと、この先へは行けないと、わたしの16歳の夏が言うのだ。その通りだった。怜奈はこの先に続く道を知らなかった。足を踏み込んではいけないと言われて、そのとおりにしてきた道だった。浮足立っていた心臓がおとなしくなっていくのがわかった。ただ、それがかなしいのかかなしくないのか、いいことなのかよくないことなのか、正しいのか正しくないのかが、怜奈にはわからなかった。わからなくて、眉を顰めた。
 たぶん、泣きそうだったのだ。

「ねえ、そこのあなた」

 声をかけられていることに気が付いたのは、立ち止まってからしばらくたってからのことだった。その”しばらく”がどれくらいだったのか、そんなことを気にする間もなく心臓が再び大きく動き始める。自分を護るように体を縮ませて、それからはっとして顔を上げた。弱い立場だと思われたくないという理性がささやいた。けれどそれは本質的な恐怖を伴っていてこそのものだった。掌は緊張で汗ばんでいた。
 その人は地面をにじるような足音で怜奈との距離を詰めた。ムラのある金髪にボリューミーなつけまつげ、声をかけてきたのは一昔前のギャルみたいな人だった。いかにも元・汚ギャルの現水商売といった感じの割には、人懐っこくてどこかコケティッシュな笑顔をしている。グロスで不気味に光る唇がなにかの幼虫のように蠢いた。

「高校生?ずいぶん身軽そうだけどもしかしてバッグとられちゃったりした?」
「はい。いや、いえ、違います」
「なにそれどういう意味?…ああ、高校生だけどバッグをとられたわけじゃないってことね。そう、そう。詳しくは聞かないわ。」

 そこでその人は一つ咳払いをすると、瞬きをふたつして怜奈と目を合わせた。

「あなたモデルとか興味ない?割のいいバイトみたいなものだと思ってくれていいわ。あなたみたいな子を探してたの。」

 いけない。
 この人はいけないと脳が警報を鳴らした。今時こんなものにひっかかる人がいるのだろうかと不思議になるくらい、古典的でお決まりの文句だ。興味ないです、ごめんなさい、と呟いて、それでも話を続けようとするその人を無視してその場から逃げ出した。


夏の熱が生ぬるい空気に運ばれて怜奈を包んだ。帰宅する気はなくとも足は自然と帰路についていた。だんだんとネオンの明かりが届かなくなって、電灯の白々しい明かりへ移り変わっていく。情けないと思った。こうして衝動的に家出してきて、すぐにのこのこ帰ろうとしている自分は情けなくて、みじめだった。怜奈はしゃがみこむと膝に額を押し付けた。自分は何がしたかったのだろうかという思いが、籠った熱のように頭の中から出ていかなかった。やり切れなさに」瞼を閉じると、虫が羽を擦りあわせる音とどこかでタイヤが回る音、それからかすかな足音が耳に届く。だんだんと近づいてくる足音に、怜奈が立ち上がらなければと思いつつ行動を起こさずにいると、「そこの茶髪、こんなとこでなにしてんの」と声がかけられた。中途半端に低い声と雑な言葉づかいは怜奈の同級生たちとそう変わらないものだったが、どこかいやに大人びていた。

「そんなとこにいたら轢かれるぞ。なあ、聞いてる?むしろ生きてる?」

 怜奈が何も喋らずにいると、向こうは勝手に喋り続けた。あんた高校生?髪こんなにしちゃってさ、ピアスは開けてる?まあ、どうでもいいけど。人のこと言えないしと、そこまで聞いたところで怜奈が膝から額を離して顔を上げた。夏の夜に浮かび上がったのは白に近い金色の髪、銀色のピアス、そのひとは人工的な色をしたエメラルドグリーンのカラーコンタクト越しに怜奈を見下ろしていた。

「やっぱり、高校生だ。こんな時間に何してんの?もしかして家出してきた?」
「…うん」
「そりゃ、いいや」

 いかにも面白いと言うようにそのひとは笑った。他人事みたいな調子で言う割に、声には慈しみに似たものが滲んでいた。

「すいぶん身軽ふだけど、どこ泊まるつもりだったの。友達のとこ?」
「ラブホ」

 嘘だけど。だって高校生は利用不可だ。そのひとはわたしの心中を見透かすように目を細めた。

「そんなとこ行くんなら俺のとこ来れば?」

 嘘だろう。嘘に冗談で返すやつは碌な奴じゃないとはどこかで聞いたフレーズだ。怜奈はなにもかもがどうでもよくなる衝動に駆られた。「俺、一人暮らしだし。」という台詞にも、もう怜奈の脳は警報を鳴らさなかった。昼間とは違った、夜の不快な熱気が怜奈に纏わりつく。脳の動きを麻痺させる薬のように、中途半端に低い声と熱気が体内に侵入してくるような気がした。ぜんぶ、夏のせいだ。夏の熱気にあてられてしまったのだ、ピアスも、ハイトーンの髪も、家出も、なにもかも。
 どうしようもなく、16歳の夏だったのだ。



悪い夢/御堂

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