眼鏡の縁に触れるのはキスの合図だった。
誰も知らない、それは多分、先生の初恋の人も初めての彼女も二人目の彼女も、婚約者のあの人、も知らない。
わたしと先生だけが知っている。きっとこれから先、誰にも知られることのない秘密だった。







少し長引いた委員会を終えて、左腕の時計を気にしながら足早に廊下を進む。
夏至を間近にひかえる今日のような日は、この時間でも暗くはならないのだと、今更気づいた。
一階の自教室前、腕時計を気にかけていたこともすっかり忘れて、まだ当分のうちは沈みそうにない太陽を眺める。


「吉川」


何をするでもなく、呆けたように窓の外を見つめていると、奥の方から先生がやってきた。手には荷物を持っている。
先生のおだやかでよく通る声が、本当に好きだった。


「柏木先生。今お帰りですか?」

「少し仕事が立て込んでいたものでね。吉川は委員会か何かかな?」

「ええ。夏の時期は本の出入りが激しいんです。」

「それはご苦労さま。」


そう言ってわずかに口の端を持ち上げた。セルフレームのお洒落な眼鏡越しに覗く、その目つきの優しさに苦しくなる。

それから視線だけで周りに人がいないのを確認し、声を潜め囁くように「送るよ。」と告げた。







先生の車は白い乗用車で、傷はおろか目立った汚れもないきれいな車だった。
乗せてもらうのは初めてではないから、この車が買ったばかりの新車なわけじゃないということを知っている。
先生は小ぎれいなアパート住まいだから、当然専用の車庫なんて持ち合わせていない。きっと休みのたびに洗っているんだろう。
そういうまめなところ一つとってみても、ただ愛しかった。


リモコン式の鍵で開錠されたのを確認して、すばやく助手席に乗り込む。誰にも見られないように、慎重に。
ワンテンポ遅れて先生が運転席に座る。鍵を挿してひねればエンジンがうなりをあげて、カーナビのディスプレイが点灯した。先生はすぐさまエアコンの設定温度を下げ、風力を最大に引き上げる。


「冷えるまで少し我慢してね。」

「はい、大丈夫ですよ。七月も近くなると、夕方でもまだまだ暑いですね。」

「僕なんかは毎年思うよ、"夏ってこんなに暑かったかな"って。」


ああ、それわかる、と思った。
一年も経てば忘れてしまうんだ。夏の暑さも、冬の寒さも、春の暖かさも、秋の涼しさも。

仄かに涼しくなった車内に、思いついたように先生が切り出す。


「そうだ、吉川。このあと時間ある?」

「ありますけど。でも先生、わたし何回も言ってるでしょう。」

「…はは、ごめんごめん、職業病かな。……ありさ、これから少しドライブしようか。」


返事の代わりに手を伸ばして眼鏡に縁をつ、となぞる。
笑みが深くなって、そのままゆっくりと唇が下りてきた。
瞳を閉じれば静かに重なる。微かにコーヒーの味がした。







「結構走ってますけど、どこまで行くんですか?」


あまり車通りのない道路を、それなりのスピードで駆け抜けていく。
学校を出る前は沈む気配もなかった太陽も沈み、辺りがわずかに暗さを帯びてきた。


「もう少し、あのトンネルを抜けたらすぐ着くよ。」


そう言われても、土地勘のないわたしにはさっぱり目的地がわからなくて、先生の言うトンネルの向こうに着くまで黙って待っていることにした。

そんなに長くないトンネルは、少し走ればすぐに出口が見えてきて、出口をくぐった瞬間、目の前に広がる光景に目を見開いた。


「海…!」

「前に、夏になったら行きたいって言ってたろ?」


興奮ぎみにドアガラスの先を見つめるわたしに、先生はおかしそうに笑い返した。
いつだったか、ぽつりともらした些細な一言を、覚えていてくれたんだと思うと、泣けるほどうれしかった。

海岸公園の駐車場に車を停めて、二人で砂浜へ向かう。
潮気を含んだ生ぬるい風が肌を撫ぜた。

二人で革靴が汚れることも気にせずに、砂浜を歩く。
わたしたち以外に人気はなく、打ち寄せる波の音と二人の足音、漏れ聞こえる息遣いがそこにあるすべてだった。


「海、入らなくてもいいの?」

「先生の車が汚れちゃうからいいです。」

「そんな気をつかわなくていいのに。」

「わたしがそうしたいからそうするんです。」

「ありさは良い子だね。」


そういって先生はわたしの頭を優しく撫でた。
切なさに耐え切れなくて、空を見上げる。俯いたら涙がこぼれてしまいそうだったから。
わたしはどうしても泣きたくなかったのだ。ずっと年下で、ずっとこどもだから、せめて手のかかる子にはなりなくなかった。


「せんせい、一番星みつけた。」

「ん?…ああ、本当だ。」

「…夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ。」

「清原深養父の和歌だね。それがどうかしたの?」

「…先生が教えてくれたから、よく覚えてるんです。古典は苦手だったけど、先生は頑張ったらちゃんと褒めてくれるから、いつも一生懸命勉強してた。」

「…吉川は、本当に、良い子だね。」


呼び方が変わったのは、きっと無意識じゃなかった。
先生は今、わたしという教え子の、先生に戻ろうとしているのだと思った。


「先生がこの歌の意味を教えてくれてから、夏の夜は特別だと思うようになったんです。だから、今日のことも、わたしは絶対忘れないです。」

「……駆け落ちしちゃおうか、吉川。」


ああ、なんて非道い人なんだろう。


先生は明日結婚する。
わたしではないあの人と、先生は明日世界で一番しあわせになるのだ。


「だめです、先生。先生はわたしの先生だから。」







結婚式には行かなかった。

行けなかったのではなくて、行かなかったのだ、と自分の意思で決めたことをはっきり示しておきたい。
そのことを、未来のわたしもしっかり覚えていてほしいとおもうから。

いとしの旦那さまが女子高生と浮気してたなんて知らずにほほ笑む六月の花嫁を、後ろ指さしてあざけるほど、わたしは悪い子でも、ばかでもなかった。

浮気に気づけないあの人をどれだけばかだと笑っても、先生に選ばれたあの人は誰に何と思われようとしあわせなんだ。


小さくておしゃれなチャペルは、きっとしあわせで溢れかえっているから、しあわせじゃないわたしはそれだけでもう泣いてしまえるとおもった。

だから行かなかった。わざわざ自分のみじめさを噛みしめに行く必要なんてない。


今、つらくて切なくて苦しくて悲しくて心が痛くて泣きそうに喉が熱いけれど、先生がしあわせになるなら、全部我慢してやろうって思うの。

わたしは先生の生徒だから。



title:夜途

青い息/三ツ井






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