三崎先生。
夏特有のじっとり纏わり付く様なしつこい暑さがいつの間にか過ぎ去って、草木がとうとう秋の色へと衣替えを始めた9月下旬の今日。最近、改装工事が施されたばかりの真新しい廊下を次の数学の授業が入っているクラス目指して歩いていた時だ。すれ違いざまに凛とした声質の女生徒から呼び止められた。
振り返った目線の先には、肩で切り揃えられた黒髪が真っ白な肌に映え、ケバケバしちゃらけた今どきの生徒らしからぬ、落ち着いた雰囲気の清楚系な子。学年順で緑赤青と違う上履きのの色からして、3年であることがわかる。
「三崎先生、」
「ん…」
この子は確か。
授業こそ受け持った事も、面と向かって会話をすることも無かったが、成績優秀、加えてこの容姿と物腰の柔らかい性格で、先生たちの間でも信用も高く、また密かに人気のある子だ。それ故、何かと顔は知っている。
そうだ、名前は確か早野さんだ。早野梓。
「早野さん?」
ぱちり。肯定の意をとるかのように静かに瞬きを繰り返した彼女は、俺の方、というか、手に抱えていた、教材の中に埋もれていた一冊の本を指差してにこりと微笑んだ。
「その本、お気に入りなんですか?」
「…ああ、まあ。」
何気なく視線を落とせば、ところどころ擦り切れている青い革表紙が目に入った。定期的にここの図書館で借りているものだ。
「でも貸出期間とうの昔に過ぎてますよ、なるべく早く返してくださいね。」
「えっ?!」
そうだったっけ?思わず聞き返せば、はい。となんともまあ律儀に返された。そういえば、早野さん、図書委員だったけ。
「すまない、今日中に返しに行くよ。」
「あっ、わかりました。ちなみに今日わたし当番なので!」
「おう」
それでは、また。そう軽く頭を下げ、踵を返した彼女は自分のクラスへとタタタッと駆けていった。廊下は走ってはいけないが、そろそろ次の授業開始のチャイムが鳴るので、今回ばかり目を瞑ってやることにしよう。うん。
∵
今日最後の授業を終わらせた俺は図書館に駆け込んだ。既にカウンター席には早野さんがいて、カウンターのパソコンを眺めていたぱちくりとした目が俺を見つけた瞬間、明らかに顔が綻んだ。
「本当、すまない。今度から気をつけるよ。」
「いいえ、大丈夫ですよ。」
早速返却手続きを受け、ボックスへと新たに積まれた青い表紙。それからふいに目を放し彼女へと移せば、端整な顔がこちらをじっと見つめていて、何故だか胸の奥がぎゅっとした。
「先生があの本読んでることがとても嬉しいです。」
「え?」
「あの青い表紙の。」
「あ、あれか。」
「はい、」
そう返した彼女の声に、遠くで鳴ったチャイムが被さった。それから、少しずつ静まっていく廊下の騒がしさ。
「あれな、高校の頃からずっと読んでるんだけどな。今でもふと読みたくなるんだよ、あの小説。」
「ほう…!そうなんですか!」
「早野さんも読んだことあるの?」
「はい、勿論です!なかなか、話がわかってくれる人いないんですよ。だから今日思わず、声かけてしまいました。」
先生もこの本読んでることがうれしくって。そう加え、照れ隠しのようににこっと微笑み、そういえば、あの主人公があーだこうだと嬉々して話す早野さんは結局、完全下校の放送が鳴るまで語り尽くしていた。余程、話がわかってくれる人が欲しかったのだろう。
そして、その日を境に、図書館へと足を運び、彼女と話をすることが自分の中で日課になっていた。新しい彼女を知るたびに少しずつ、でも明らかに彼女に対する感情が変わっていくのがはっきりとわかった。
ただそれは、ごく自然に、好きへと変わっていた。それが、どんなに悪いことなのかも嫌という程知っている。でも、彼女のことが好きだという事も嫌という程実感した。
そんな中、卒業まであと2ヶ月を控えたある日、この微妙な関係はあっさりと終わりを告げる形となってしまった。
いつもと変わらず、足を運んだ図書館。早野さんは先に来ていて、あの青い表紙の本を黙りこんで読んでいた。邪魔しないようにと、黙って、それでもさり気無く隣に座る。一度ちらりとこちらに視線を寄越した彼女はまた本に目を戻し、唐突に口を開いた。
「先生、」
「ん」
「間違えるものらしいですよ、」
「何が…?」
「恋愛です。」
「これまた、何を唐突に。」
「母が言ってました。沢山間違いも失敗もしてきたって。まあ、人生においてもだけどねって。」
「ははっ、なんか壮絶な人生を歩んできた言い様だね早野さんのお母さん。」
「ですよね、」
誰もいない図書館に二人分の小さな笑い声がこだまする。幾分か響いたそのすぐあと、俺を襲ったのは静まり返った空間だった。その空間が自分をいやにおかしくさせた。
そして気付けば、口を開いた自分がいた。
「じゃあ、俺が君の事が好きっていうのは、正解?」
「世間体で言えば、生徒と先生っていう時点で不正解かもしれませんけど…私にとって、三崎先生は正解です。」
絶対に。そう加えた彼女は小さくふふっと笑った。嗚呼、とんでもない人だ。どんな生徒よりもたちが悪い。ここ最近彼女の所為で心臓に途轍もない負担がかかっている気がする。でもこれも全部、惚れた弱みというものであるのか。はあーと肺に溜まったままの二酸化炭素を存分に吐き出した。
「…先生。」
彼女が小さく俺を呼ぶ。なに、と視線を寄越せば、本を閉じ、こちらを見つめている。憂いある黒目に自分の顔がぼんやりと映って見えた。
「…ん」
「あと2ヶ月待っててください。」
浮気しちゃ駄目ですよ、絶対に。念押しするように、顔を覗き込み微笑みかけられる。俺は何とも言えない様な表情を浮べていたと思う。でもただ一言だけ、待ってる。と静かに白い息と共にはいて、背もたれにググっと深く腰掛け、ゆっくり瞼を閉じた。
視界が閉ざされる直前、見えたのは嬉しそうな表情を浮かべた梓の顔だけだった。
君と同じ答えがいい
果たして、これは、正解なのか不正解なのか。
(先生、)
(それは不正解です。)
それが不正解だったとしても、君と同じ答えならばそれでいい、それだけで俺はお腹いっぱいだから。もう満足だから。
end.
君と同じ答えがいい/沙夜