2.5



対血界の眷属(ブラッドブリード)特別組織「牙狩り」。そのNY支部であり、秘密結社であるライブラの事務所はかつて無い程の緊張感に包まれていた。

床に倒れ伏したままピクリともしない、ザップ・レンフロ。
彼の白いジャケットに張り付いた、グチャグチャのトマト。
それをじっと見つめたまま戦闘態勢の牙狩りの二人。

妹の視力を取り戻すために霧と魔術に覆われたこの街へと訪れた少年――ーレオナルド・ウォッチは開けた扉をそっと再び閉めた。

疲れてンのかな、俺。



全ての始まりは数分前に戻る。
その日、早々に愛人の部屋から追い出されたザップ・レンフロ―――度し難い人間の屑の代名詞とされる男――ーは仕事をするわけでもなく、ライブラの事務所で完璧な執事の入れた紅茶と茶菓子を文字通りむさぼっていた。その日はとても平和だった。彼を蛇蝎の如く嫌うチェインは人狼局の仕事の為不在。腹が満たされた彼は上機嫌だった。
上機嫌になった彼は弟弟子であるツェドに個人的に気に食わないという理由で何時ものようにからかおうと一つのジョークを言った。
繰り返し言うが、その日はとても平和だったのだ。まるで嵐の前のように。
風を切るような音が1秒にも満たない程の速さで吹いた。蛙の潰れたような声に書類処理をしていたスティーブンが気づいた時、既にザップは猛烈な勢いで壁に背中から叩きつけられていた。

「……ツェド、確かに奴は為しがたい人間のクズだが備品を壊すような方法での反撃は控えてくれ。」

仕事が増えるだろう。と疲れた表情で言うスティーブンに色々とツッコミたい所はあるが、それ以上にツェドは言わなければいけないことがあった。

「…スティーブンさん。今の、僕じゃありません。シナトベどころか、普通の攻撃すらしていません。」

斗流血法・シナトベ。ツェドが正当後継者となった血法は風の属性を利用したものだ。ザップが戦闘においては天才とはいえ気を抜いた状態で同門の者にやられたのなら、流石に飛ばされてもおかしくはない。しかし、ザップを壁へと叩きつけたのがツェドではないのなら誰が?
コンマ数秒にも満たない速度で二人は臨戦態勢へと移る。
何者かがこの事務所に侵入した?
いや、ここは何重にも結界が施されたドアを通らなければ入れない。その上鍵となるのは生体認証だ。メンバーとて早々にやられる面子ではない。
血界の眷属か、堕落王による暇つぶしの影響か?
生憎と今日は久しぶりの世界滅亡の危機がない日だ。その可能性もないだろう。
ならば一体何が起きている?

床に落ちているソレに最初に気付いたのはツェドだった。
兄弟子と認めたくない男の上に落ちている、赤いソレ。ゼリー状の内果皮に覆われた種に瑞々しい果肉。スライスされたトマトがザップのジャケットにくっ付いていた。

「これは…トマト?」
「…は?」

先ほどまでザップが食べていた茶菓子にトマトのスライスは乗っていないし、トマトなどこの男は食べていなかった。一体何処から?同じく臨戦態勢に入っていたスティーブンが弾かれたように自分の昼食であるサブウェイの袋へ目をやる。紙袋は口が開いており、サンドを包んでいた包装紙は内側から破られたような穴が開いていた。

トマト、ナス科ナス族の植物。チェーン店の商品らしく薄くスライスされた野菜。
それが人類に牙をむいた瞬間だった。


「…いや、話は理解できたんスけど。何でトマト…。」
「僕らがそれは知りたいよ…。」

バンズの隙間から覗く赤い果肉は瑞々しい。とてもじゃないが、このスライスされた野菜が人間の屑ではあるが戦闘の天才である人間を一撃で伸したとは思えない。とはいえ、その一連の流れを見ていたのは兄弟子とは正反対に実直真面目なツェドと常識的なライブラの副官だ。例え冗談だとしてもこんな嘘は言わないだろう。

…まさか幻覚か魔術で見せられたとか?

レオナルドの脳裏を過ぎるのは先日のDr.ガミモヅによる一件。ライブラのメンバーを欺き、妹と義弟を人質にとった敵は神々の義眼を片目にしか持っていなかったがそれでもあれ程の精度の幻覚を見せた。ならばまるでトマトがSS先輩を倒したように見えてもおかしくないはず。
ゆっくりと目を開ける。持ち上がる瞼の下から覗くのは青白い光を放つ瞳。少年の眼前では幾何学的な模様が寸分の乱れもなく一定周期で回転し、重なり合う。

誰かがいたのなら、その残留思念を追えばいい。

神々の義眼、妹の視力と引き換えに得た恩恵はそれを可能にする。
例えそれが何であろうと、彼に見えないものは無いのだから。

「…嘘だろ。」

文字通り、目を見開いた彼の様子にスティーブンとツェドが尋ねる。

「少年、誰が視えた?」
「レオ君…もしかして誰も視えなかったんですか?」
「いえ、視えたは視えたんスけど視えなかったというか…ありえないというか…。」

矛盾したレオナルドの言葉に二人が訝し気な表情を浮かべる。

「はっきりしないな。」
「どういう事ですか?」
「確かにザップさんの分ともう一つの残留思念はあったんスけど、それがやっぱりそのトマトのなんですよ。」
「「は?」」

困ったようにレオナルドが指さす先にはサブウェイのサンド基、スライストマトがあった。



「坊ちゃま…。」
「つまり…その、ザップはサブウェイのサンドに挟まっていたスライストマトによってノックアウトされてしまった…ということなのだな?…スティーブン、やはり君は少し休むべきだ。すまない、私が不甲斐ない所為で君にばかり仕事が行ってしまったばかりに…。」
「クラァァァウゥス!!本当なんだ!お願いですからギルベルトさんもその目はやめて下さい!見たのは俺だけじゃないんだ!」
「確かにクソ猿にはお似合いの死に方だけど…。レオとツェドは少し休むべきじゃない?」
「いえ、本当にいきなりトマトが…。」
「K・Kさん、違うんッス。本当です。いや、俺は見てないけど本当にトマトの他に何も見えないんです。」
「レオッち…可哀想に。貴方、疲れてるのよ。」

実に平和なその日、ライブラは混乱の最中にあった。
余程トマトの衝撃が強かったのか、未だに気絶状態のザップは床に倒れたまま。ツェドにスティーブン、レオナルドは必死にその経緯を他のメンバーに説明するもあまりにも非現実的すぎる内容に誰も信じない。それどころか頭の心配をされる。

一体どう説明しろというんだ。いっそザップが起きて説明すればいいんじゃないか、早く起きろと心の中で盛大に悪態を吐くスティーブン。
兄弟子はやはり碌でもないことしか起こさないと呆れを通り越して諦めの境地に至るツェド。
俺、疲れてるのかな…と自分の正気を疑い始めるレオナルド。
そんな三人を見て、疲れているのかと心配する他のメンバー。
しかし誰一人としてザップを助けようとはしない。日頃の行いの所為だろう。


Piriririri!!!

わぁわぁと一向に進まない論争に終止符を打ったのは、スティーブンにかかってきた一本の電話だった。

「…はい、こちらスティーブン。」

苛々とした心情とは対照的に、電話に出る彼の表情は至って落ち着いたものだ。そこが牙狩りの仲間の一人に蛇蝎の如く嫌われているのだが、彼なりの処世術は今更変えられるわけもない。何年と繰り返した果てに染みついたその癖は今日も至って何事もないように対応をするはずだった。

「…分かった。ああ、直ぐに対処しよう。
諸君、残念な報告だ。ヘルサレムズ・ロット内でトマトに襲われる事件が多発しているらしい。出動だ。」
「「「…は?」」」

レオナルドとツェドを除く全員の目が点になった瞬間だった。


4月8日発生の同時多発トマト襲撃事件に関する報告書
20××年4月8日
牙狩りニューヨーク支部「ライブラ」

報告書

20××年4月8日に発生しました同時多発トマト襲撃事件につきまして、その報告を下記申し上げます。

20××年4月8日、ヘルサレムズ・ロット内でトマトに襲撃される事件が多発し、牙狩り元ニューヨーク現ヘルサレムズロット支部「ライブラ」がトマトの回収及び調査を行いました。トマトの流通元の特定を現在急いで行っております。

事件の経緯
11時頃、牙狩り元ニューヨーク現ヘルサレムズ・ロット支部「ライブラ」内でメンバーの購入したサブウェイのサンドイッチに挟まれていたスライストマトが支部のメンバーを襲撃。その衝撃により約6時間の気絶状態に陥りました。同じく同支部の「神々の義眼」所持者に確認させたところ、幻覚や魔術の痕跡はなくトマトが意思をもって被害者を襲撃したことが判明しました。
同日12時頃、ヘルサレムズ・ロット各所にて類似の事件が多発。被害者の共通点はいずれもトマトに襲撃されたこと、襲撃の直前に何らかの冗談を言っていたことが挙げられます。流通元の特定は購入者が死亡したケースや包装材が既に処分されてしまっていることもあり、非常に困難です。

補足
調査中に同一人物を事件現場にて何度か確認されている模様です。いずれの事件現場からも証拠であるトマトを回収している為、当該事件に関して何か知っている可能性があります。流通元の特定と同時並行でその人物の特定を急いでおります。

添付ファイル
【スライスされたトマトの写真】








防音室の中には積み上げられたゴミ袋の山。袋の中身はスライスやくし切りにされたトマトばかりだ。部屋の片隅には一脚の椅子に腰かける男。
彼の持つスマートフォンには一通のメールが表示されている。内容は至って簡潔。彼が赴任地で厄介な組織に目をつけられたということ。

「クソっ…面倒な組織め。」

目深に帽子を被った男が悪態を吐いた。彼の手には包装された一箱のトマトがあった。
『Idola 農場直送 とっても素敵な美味しいトマト』
そう印字された袋に再び悪態を吐く。

「やはりあの悪魔の子とポンコツ機械はもっと厳重に収容すべきだったんだ。このままだと世界中が人間ケチャップだらけになっちまうぞ。」

ピクリ、

トマトが震えた。


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