深夜三時の恋心

怪異とはそこに在るけどそこに無いもの、人間の概念の中には収まりきらないような存在。そんな奴らが人間の言う、時と場合と状況なんてものを気にしてくれるだろうか?いや、そんなはずがない。
例えそれが偶々獄卒数名に召集が掛けられるような大物だったとしても関係のない一般人を普通に巻き込むし、仮にその一般人が悪意があるとしか思えないような教師陣が一斉に出した課題に苦しみ喘いでいたとしても危険に晒す。

ここまで言えば分かるだろうか?
現在の時刻は22:00、向日葵の前に積まれた課題は英語・歴史・国語・生物・科学それぞれ問題集数十ページ分。終わるわけがない。
どうしようもない現状に彼女が絶望している最中、救いの手を差し出したのは人間でも神でもなく鬼だった。特務室のエンジェルこと人格者として名高い佐疫と真面目で誠実と評判の斬島、薬剤といえばこの方と言われる抹本。そして、正直必要かどうか怪しい平腹。三人寄れば文殊の知恵、かくして向日葵の宿題は早々にして終わった。




…そうなるはずだった。
途中で発生した問題に一般人の彼女はおろか、常識人代表といわれる佐疫ですら打つ手が無かったのだ。

「…いいですか、平腹さん。真面目に、真面目に!答えてくださいね…?
『I live in Tokyo』 この文を過去形にしてください。」

問題としては中学生も普通に答えられる様な難易度。少なくとも何年も生きていた鬼なら答えられるはずの問題。しかし斜め上を行く彼の頭脳が出したのは

「簡単だろー!

『I live in Edo!』」
「違う、そうじゃない。確かに過去だけどそうじゃないんだ。」
「凄いな、平腹。南蛮の言葉が使えるのか。」
「…斬島、あれは参考にしちゃだめだよ。」

佐疫は遠い目をしていた。流石に同僚の予想外の発言にはツッコミやフォローすらも放棄したらしい。とはいえ、問題なのは平腹だけじゃない。

「…あの、抹本さん?空欄補充問題を埋めようとしてくださるのは嬉しいんですが、その回答は、絶対違うと思う。」
「え…、そうなの?でもこれ以外に当てはまりそうなのって…。」

理系代表の抹本が解こうとした問題は『板垣退助は政府のやり方が専制政治だと批判し、国会を開くよう主張した。これにより(  )運動が起きた』という歴史の問題。真っ白だった空欄に埋められたのは

『体を前後に曲げる運動』

後のラジオ体操が誕生した瞬間だった。

「気持ちは分かるんです、確かにラジオ体操ってすっごい歴史長そうだし、流行っても可笑しくないよね!でもこの時期にラジオ体操流行っても教科書には載せられないかなぁ!!」
「ええぇぇ…。」

向日葵でなくても思わず頭を抱えたくなるだろう状況に、彼女は現実逃避も兼ねて隣の佐疫と斬島の方へ目を向けた。…物の数分でその選択を後悔することとなったが。

「ろんぐろんぐあご?…そうか!長い顎の事か!」

…恐らくlong long agoの事を言ってるのだろう、分かってしまう自分が悲しくなる向日葵。絶対それ文脈的に長い顎の事を話してないと思うんだが、そう思っても口には出さない。きっと常識人は親友の暴挙を止めてくれるだろう。しかし斬島の親友である佐疫、斬島限定で黒蜜にシロップと蜂蜜を混ぜたぐらいどるぅんどるぅんに甘いと定評のある佐疫は彼女の予想を遥かに上回っていた。

「斬島…!ローマ字が読める様になったんだね…!!」
「お願い、佐疫さん。貴方までボケになったらほんと収集付かないからこれ。」

結局、科学以外の科目が終わった頃には既に夜はどっぷりと更けており、獄卒達は報告書の提出の為にも一度館へ戻っていった。本来なら夜行性である筈の彼女の姉は既に夢の中、鏡の怪異も自分の世界に引きこもっている。居間の机の上に広がる大量の参考書と科学の課題を前に向日葵は溜息をついた。これ終わるのかなぁ…。
不運な事に彼女の科学の教師は捻くれ者というか、変人なので問題も一筋縄ではいかない。課題の中でも一番時間がかかるだろうそれに観念し、参考書を開いた。







「ん…。」
いつの間にか眠ってしまったのだろうか、灯りが付いたままの室内で向日葵はテーブルにうつぶせていた。

「やばっ、今何時!?」
「ぉへぁ!?…え、あ、向日葵ちゃん起きたの?」
「…あれ…抹本さん?」

帽子と外套こそ脱いでいたが優しげな緑色の瞳の獄卒は隣でペンを握っていた。

「まだ残ってたみたいだし、俺も科学とかなら得意だから。」
「あ…。」

彼女が最後みた時は半分にすら達していなかった課題は既に2/3が埋まっており、時計の短針はとっくに12を超えていた。一体いつから助けてくれていたんだろう。

「ごめんなさい、抹本さんも忙しいのに…。」
「気にしなくていいよ、俺今日は非番だから。…ふぁあ。」

一つ大きな欠伸を溢す目の前の鬼に、益々向日葵は罪悪感を覚えた。そりゃあれだけ動いた任務の後だもの、疲れてますよね。得意な分野ということもあり、早々に課題を終わらせた抹本に彼女がお礼を言った頃には既に3時を回っていた。きっと今から獄都に帰るのも大変だろうし、今夜は我が家に泊まってもらった方がいいだろう。

「抹本さん、抹本さん。」
「うぇっ!?あ。な、なに?」
「宿題のお礼をしたいのですが、何がいいですか?お菓子でも、現世ツアー案内でも何でも言っちゃってください。」
「…何でも?」
「何でも。」

隣の彼は驚いたように、眠たげな目をぱちぱちと瞬く。少し考えた後、いつもの和やかな笑顔を浮かべた。

「えっと…。俺、一回向日葵ちゃんにやってほしいことあるんだ。」
「私に?…もしや採血ですか?別にいいですけど、死なない程度におねが…。」
「うぅん。えっと、…膝枕して欲しいなぁ。」
「ひざまくら。」
「駄目?」
「いえ、寧ろそれでいいんですか?何か欲しいとか、そういうのじゃなくて。」
「うん、膝枕がいいんだ。」

照れくさそうに言う抹本に彼女は驚いた。
膝枕、確かにロマンに溢れてますよね。でも、果たして私の膝にそれほどの価値があるのかは怪しいと思うんだが。
首を傾げつつもソファーの端に座る。それを拒絶と見たのか眉を下げる彼を無視して、向日葵は隣を軽く叩いた。

「床の上だと寝っ転がるとき背中が痛いと思うので、ソファーの上でしませんか?」
「え、あ…うん!」

いそいそと彼女の隣に座り、そのまま頭を少女の膝へと預ける抹本。部屋着のズボンから覗く白い脚は女性らしく柔らかく、頭を預けるのに丁度良いその感触に疲れも相まって睡魔に襲われる。止めとばかりにゆっくりと撫でてくる彼女の手のせいで、気を抜いた瞬間に眠りに落ちそうだ。

「もうこのまま寝ちゃってても大丈夫ですよ?私、さっきちょっと寝ちゃいましたし。」
「うーん…で、も…。」

もう既に半分寝ている様なものだが、このまま自身が寝てしまったら彼女も辛いだろう。必至に意識をつなごうとする彼を見て向日葵は苦笑いを浮かべる。

「それにしても、何で膝枕を?別に悪いわけじゃないんですが、ちょっと予想外でした。」
「…ん、と…やかたの、としょしつで…よんだ、ほんに、かいてあったんだ。」
「本に?」
「すきなこに、してもらうと……す、ごく…うれしくなる、て。」

予想外すぎる言葉に向日葵は思わず手を止めてしまうが眠りにおちた彼は気づかない。

「…え?」

すきなこ……好きな子?
予想外の言葉に、向日葵を襲っていた睡魔が一気に退散する。顔面が熱くなり、鏡を見ずとも分かるほど赤くなっていく。

「爆弾投下していった…この鬼…。」

両手で顔を覆い、必至に唇の裏を噛みしめ奇声をこらえる。指の間から恨めし気に元凶を見下ろすが、当の本人は彼女の膝の上で幸せそうに眠っている。
知り合いでしかなかった筈の彼が男なのだと自覚してしまった今、落ち着いて寝れるわけがない。ばくばくと一向に落ち着かない自分の心臓の音が、彼を起こしてしまうのではないかとすら錯覚する。

「寝れるわけないじゃん…こんなの。」

せめて彼が起きる時までには顔の熱が引いてくれるのを祈ろう。