5000hit企画用小説 | ナノ

Cherry


それは普段のように滞りなく任務を終わらせた日だった。
現世は盛夏へと向かう頃。恐らく、もう暫くすると何も知らない生者どもが怪談や肝試しなどで怪異を呼び、連日の様に仕事が舞い込むだろう。後先考えずに仕事を増やす生者共を思い浮かべ、思わず舌打ちをする。いかん、気を切り替えねば。肋角さんに任務遂行完了の旨を報告すべく、特務室へと向かう途中で佐疫と偶然出会った。

「あ、谷裂。」
「…佐疫はこれから任務か。」

優等生である同僚は温和な表情を苦笑いへと変えた。

「ううん、お見舞い…かな?」
「見舞い?」
「そう。どうも向日葵ちゃんが風邪に罹っちゃったみたいでね。」

向日葵――生者でありながら、俺たち獄卒の仕事に関わった厄介者。そして肋角さんのお知り合いの方の妹。気の抜ける様な笑いを浮かべた女の顔が脳裏に浮かんだ。

「軟弱な奴だな。」
「うーん…風邪の初期症状は出てたらしいんだけど、無視してたら悪化しちゃったみたいでね。」
「馬鹿なのか、アイツは。」

夏風邪は馬鹿しかひかない、そういう格言があったのを思い出した。

「俺はこれからお見舞いに行こうと思うんだけど、谷裂も来る?何だかんだで向日葵ちゃん、谷裂に懐いてるみたいだし、喜ぶと思うよ?」
「俺は行かん。肋角さんに報告した後、鍛錬しに行く。」
「あ、懐いてるの部分は否定しないんだね。」
「佐疫…!」
「ごめん、ごめん。じゃあ僕はもう行くね、鍛錬頑張ってね。」

去っていく佐疫の後ろ姿を見て、何やらモヤモヤとした感情が生まれる。
…いかん、早く肋角さんに報告せねば。踵を返し、肋角さんの元へと向かった。



「―――…以上です。」
「ふむ…よくやった、谷裂。」
「はっ!…それでは失礼します。」

肋角さんは報告書に目を通されると、俺にお褒めの言葉を下さった。
大変光栄だが俺は未だ肋角さんの足元にも及ばないのだ、調子にのるようでは任務に支障がでてもおかしくない。鍛錬を重ねなければ…。
退室した足でそのまま鍛錬所へと向うべく食堂の近くを通ろうとした時だった。

「お!谷裂ぃー!っへぐし!」
「…平腹、貴様は少しは静かにできんのか。」
「んー…無理!」
「貴様…っ!!」

食堂の中から相変わらずの大声が響く。
学習しようとする気のない同僚に怒りを覚えた。貴様ふざけているのか!!

「谷裂、それよりも"いんふるえんざ"とは何か知っているか?」

斬島が平腹の向かい側から尋ねてくる。

「知らん。何だそれは。」

聞いたこともない言葉に即座に答える。そういう事は佐疫かそこで寝ている田噛に聞け。

「それが佐疫が言ってたんだけどさー、なんか向日葵が罹ったのってただの風邪じゃなくてインフルエンザっていうらしいぜ?で、インフルエンザって何?」
「俺が知るか。それよりも斬島、鍛錬に付き合え。」

鼻をすすりながら平腹が言う。風邪の種類だというのは理解した。だがいんふるえんざが普通の風邪と何が違うのかなど、風邪をあまりひかない獄卒には全く必要でない知識でしかない。第一あの廃校舎を自力で脱出した生者が、たかが風邪如きでくたばるとは思えん。暫くすればまた能天気に笑いながらまた厄介事に巻き込まれているのだろう。
あまり心配もせずにそのまま斬島を連れて鍛錬に向かおうとしたとき、机に伏せていた田噛が珍しく起き上がり呟いた。

「そういや…めんどくせぇことに、以前大量に亡者が送られてきた件もインフルエンザの所為だったな。」
「「「………。」」」

俺を含め全員が黙った。思い浮かぶのはつい先日、大量の亡者が地獄へと裁きのために送られた所為で起きた混乱。閻魔庁の獄卒だけでは足りなくなり、俺たちまでもが駆り出された一件。

「え!?向日葵死ぬの!?」
「知るか。」
「いや…恐らく…大丈夫だろう…。」
「斬島ぁ、すっげぇ目ぇ泳いでるぞー?」
「………。」

アイツが、向日葵が死ぬ?
それは当然の、だが想像し難い未来に思えた。奴は人間であり、いつか死ぬのは必然だ。にもかかわらず、あの表情が頻繁に変わる女がただ冷たくなっていく姿がどうにも浮かばないのだ。

「谷裂?」

訝し気な表情を浮かべた田噛が此方を見上げてくる。いや、やはり人間はいつか必ず死ぬ。そうあるべきなのだから、ここで奴が死んだとしてもそれは必然なのだろう。

「…いや、何でもない。人間が死ぬのは必然だ、それが早いか遅いかだろう。何故狼狽える。」
「えー…でもアイツすっげぇ面白…。」
「あ、いたいた。谷裂、肋角さんが呼んでたよ。」
「木舌か。分かった、すぐに向かう。」

いつも通りへらへらと締まりのない笑みを浮かべながら木舌が俺を呼んだ。任務だろうか?肋角さんに呼ばれているのならば、お待たせするわけにはいかない。踵を返し、再び室長室へと向かう。おそらく任務だろう。気を引き締めなければならないにも関わらず、脳裏にただ浮かぶのは棺の中で眠り続ける奴の姿だった。



任務の内容は、逃げ出した亡者を地獄へと送還するというものだった。
いつも通り自分の武器である金棒を振り、亡者に惹かれ集まって来た怪異を塵も残さぬように撲殺する。木舌には亡者の確保を任せたが、建物自体が入り組んでいるらしく随分と時間がかかっている。

「チッ…。」

消しても消しても止めどなく湧いてくる怪異に苛立ちを覚える。いや、違う。これは八つ当たり以外の何物でもない。今回の任務の内容について説明を肋角さんから受けた際、亡者の死因をも説明された。
病死。間の悪いことに、先ほどから頭を離れない懸念が益々大きくなった。
ただひたすら金棒でもって怪異を叩きのめす。ようやく最後の一匹が消滅したころ、まるで機を図ったかのように木舌が捕縛した亡者と共に建物から出て来た。

「木舌、遅いぞ貴様!」
「ごめん、ごめん。予想以上に建物の中が変質しちゃっててね…。」

亡者は未だに暴れ続けているが、獄卒の力で縛った縄が緩むことはない。後はコイツを閻魔庁へと連行するだけだ。

「…あ、谷裂、ごめん言い忘れてた。向日葵ちゃんの所にも寄らなきゃいけないんだ、肋角さんが環さんに預けてるものがあるらしくってさ。」

環――聞き慣れない名前に眉を顰める。
…ああ、そうだアイツの姉で肋角さんのご友人の化け猫の名前だ。肋角さん直々に依頼された任務なのだから、早めに行動に移すべきと考え頷く。

「分かった、木舌はそのままソイツを閻魔庁へ届けろ。俺がそちらに向かおう。」
「うん、任せたよ。」



現世ではありふれた形の一軒家。その扉の前に谷裂は立っていた。
少しの逡巡後呼び鈴を押す。そもそもあの女は環さんと不本意ながら見逃されている怪異に好意を向けられているのだ、病死するまで放置されるなんてことはそれこそあり得ないだろう。田噛の言葉に動揺したことを今更ながら恥じる、考えれば早々に分かったことだ。未熟な自分に苛立ちを覚え始めた頃、ふと気づいた。

「…留守か?」

先程から一向に扉が開く気配がない。もしかすると、病院に向日葵を連れて行っているのかもしれん。仕方ないので日を改めて尋ねるべきかと扉に背を向けようとした時だった。

「はーぃ。」

ようやく扉が開いたと思うと向日葵自身が顔を出してきた。何故こいつは件の鏡の怪異にやらせない!?悪化するだろうが!

「…風邪をひいたと聞いたが…っおい!」

彼の思った通り、熱上がってきたらしい。バランス失った向日葵を谷裂は慌てて支えた。フラフラの彼女はその身長差からか、谷裂の肩に顔を押し付けるようにしてもたれる。その状態で向日葵が掠れた声で呟くその内容に谷裂の中で不安が一気に募った。

「あー…やばい、世界が洗濯機みたく回転してるわー。」
「死ぬのか!?」
「いや、薬飲んだし…死なないと思いたいです。てか…谷裂さんもお見舞い?」
「…フン、勘違いするな。環さんにある物を受け取りに来ただけだ。」
「おー…お仕事お疲れさまで…す。」
「…はぁ、邪魔するぞ。お前の部屋は2階だったか。」
「ぅぁー、でじゃぶー…。」

いつまでも俺にもたれている、目の前の女にため息をつく。いつもなら喧しいその口から出る言葉数も減ってきてるので、本格的に危ないかもしれない。仕方がないので抱き上げて2階へ運ぶ。流石に女に、しかも厄介者とはいえ肋角さんの友人の妹だ。乱暴に扱う訳にはいかないので、あまり揺らさないように横抱きにして奴の部屋へと運ぶ。

厄介者とはいえ女の部屋に入ることに躊躇したが、このまま放っておくほうが問題だと室内に入った。内装をあまり見ない様にまっすぐに寝台へと向かうと、ぐったりとした向日葵の体をそこへ寝かせる。とりあえず体温計を取りに行くべきかと踵を返した所で、服の裾を何かに掴まれた。

「…離せ。」
「や、です。」
「…。」
「何か今すごく寂しんです。一人にしたら絶対泣きます。谷裂さんに泣かされたって斬島さん達に言ってやる。しかも理由は伏せて。」
「貴様!…はぁ…分かった。」
「!ふへへー」

頑是ない我が儘にいつもなら怒号を飛ばすだろうが、今日ばかりは相手が罪のない生者で病人だ。しかもかなり弱り切っている女とあれば獄卒といえど、心を鬼には出来ない。重いため息を吐いた後、寝台の横の床に座る。それを見て俺が帰らないと理解したのか、布団に横たわった奴が握っていた袖の裾を離す。
そのまま何かを話すわけでもなく黙ったまま同じ部屋にいるだけだったが、その沈黙は居心地の悪い物ではなく、むしろどこか落ち着くものだった。

「…う、ぁ…っ…。」

なんとなく背を向けていた寝台の方から小さなうめき声が聞こえたので振り返る。いつの間にか眠っていたらしい奴が魘されていた。余程恐ろしい夢でも見ているのか、いやコイツが怖がるものはそもそもあるのかと見当違いな考えが浮かぶ。それと同時に何か胸の内を不快な感覚に占められ、意味もなく眠る向日葵の頭を撫でた。


一拍遅れて気づく。

「…ッ!」

何故、俺は手を伸ばした?
自分のした行動の意味を理解できず、自問自答をするもやはり答えが出ない。肋角さんに拾われる前、誰かに同じことでもされたのか?いや、とうの昔の事など覚えてすらいない。ふと視線をやった奴の眉間からは皺が消え、今では間抜けな寝顔を晒している。

「…チッ、お前はそのまま笑っていろ。」

心の内で燻っていた不快感はいつの間にか消えていた。どうせ肋角さんからの依頼はこいつの姉が戻ってくるまでは果たせない。寝台の横、床の上に座ったまま谷裂は静かに目を閉じた。

さて、向日葵の姉と境が帰ってくるまで、あと5分
帰って来た境が谷裂に噛みつくまで、あと10分
じゃあ

彼が彼女へ抱くその感情に気づくまで、あとどのくらい?


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