狼に食べられない様にO


木舌さんを連れて奥の一室へと向かう。灯りのついていない部屋には、雪夜のように白い月光が差し込んでいた。ドアの横のスイッチを押し、灯りをつける。蛍光灯に照らされた室内にはベッドと机、椅子がワンセット、机の上にはランプが一つ。クローゼットにはハンガーが数本。
空き部屋と言えどこまめに掃除をしていたおかげか埃立つようなこともなく、十分に客室として機能していた。

「ねぇ、お嬢さん。」

眠い。
さっきまでそう言ってた割に、木舌さんはベッドではなく窓へと近づく。

「木舌さん、とりあえずその上着は脱いだ方が…」

窓辺に立ったまま、こちらを振り向く彼の後ろには煌々と光る月。どこか寂し気に此方をみる緑色。

「月が綺麗ですね。」

「!」

最初、私にとって木舌という獄卒はただのドジな鬼という印象だった。目をくり抜かれ、同僚に助けを求める様な獄卒。でも、話しをする内にその印象は変わっていく。優しいところも、意外と先を見据えているところも、きっと関わろうとしなければ気づけなかった。もっともっと貴方の事が知りたい。そう思い始めて、ようやくこれが恋と呼ばれるものなんだと気づいた。
だけどいつだって、木舌さんは明確な境界線を敷いていた。お嬢さん、なんて呼んで決して私の名前を呼ばないのもその所為なんだろう。
要するに、この恋は始まる前から終わっていたのだ。

なのに、なんで、今更そんなの…。
夏目漱石がI love youを訳した時に言ったセリフ。あまりにも有名すぎる告白。
受け入れて欲しい、でも断ってほしい。揺れる彼の緑色は言葉よりも顕著に彼の思いを表してた。

「…俺もそろそろ寝るよ。部屋、貸してくれてありがとう。」

一向に答えない私を見て、困ったように笑う木舌さん。
ねぇ、気づいていますか?貴方がいつもみたいに上手に笑えてないことを。

ああ、もう…なんてズルい人なんだろう。
私が何度この思いを殺したか分かりますか?
好きなんです。

私がどんなに苦しんだか知っていますか?
愛してます。

私が断れないと知って、そう言うのですか?
貴方が愛おしい。


恋したから、なんて理由で彼に振り回されてしまうなんてしゃくにさわる。やられっぱなしは性に合わないのだ。一歩、ベッドに座る彼に近づき、彼の目を下から覗き込むようにしゃがみこむ。

「ねぇ、木舌さん。私はずっと昔から、貴方と見る月は綺麗だって事知ってるんですよ?。」

不安そうな瞳に笑いかける。
人間を舐めないでよ、ズルい鬼さん。
一瞬の瞠目後、それでも不安そうに木舌さんは私の頬へと手を当てる。武骨な固い指が頬を優しくなでた。

「俺は…きっと君を捕まえたらもう逃がしてあげれない。これが最後のチャン…むぐっ!?」

…女々しいにも程がある。
イラッとして、ポケットに入っていたウィスキーボンボンで彼の口を無理矢理塞いだ。

「ここまで女性に言わせておいて逃げるなんて選択肢があると思わないでくださいよ。私は生者だし、貴方は獄卒だ。色々と大変なこともあるかもしれないけど、難しいことも後で一緒に考えよう?」

恋する女は恐ろしい、友人が以前そう言っていたのを思い出す。女の子だっていつまでもお砂糖やスパイスみたいなフワフワした何かのままではいられない。意中の人を落とすためにライバルを蹴落としたり、退路を塞いだりする。純情な乙女だなんて自称するつもりはないけれど、私の恋心を一方的に振り回したんだ。ここらで形勢逆転といきましょう?

「あぁ、もう…向日葵ちゃん男前すぎるよ…。」
「知らなかったの?恋する女の子は皆とても強いんです。」
「ほんと、敵わないなぁ…向日葵ちゃん。」

へにゃりと眉を下げて、でも嬉しそうに笑う木舌さん。私よりも大きくて、年上のはずなのにその笑顔に母性本能をくすぐられる。私の彼氏(仮)がこんなに可愛い筈があった。

「何ですか?」

私まで思わず笑顔になってしまう。別に、ニヤケてなんかないハズ…っ!
諦めきれなかった初恋が実った喜びと、彼に一杯食わせられた優越感で私は油断しきっていた。

「愛してるよ。」

まさかこんな爆弾が耳元で落とされるなんて思ってなかったんだ。

「…。」

私の時が止まった。
数秒かけてようやく彼の言葉を理解すると同時に、一気に顔が熱くなる。

「な、なっ!…っ!?」

口はパクパクと鯉の様に開閉することしかできない。嬉しさと、恥ずかしさとで脳みそは既にオーバーヒート済みだ。彼の胸板を押して必死に離れようとしても、腰に回された腕に阻まれてしまい一向に動けない。先ほどまでの優越感はどこへやら、再び形勢逆転されていた。

「向日葵ちゃんは?」
「あ…え、っと、その…。」

いや、大好きですよ!?大好きだけど!心の準備って物が…っ!咄嗟の事態に頭が回らない。元々木舌さんの声ってバリトンボイスなので、かなり耳にクる。どれくらいかっていうと、耳元で囁かれると腰が抜けそうになる位には。別に声フェチとかじゃないんですよ!?

「俺の事嫌い?」

寂し気な声を耳元で囁かれてはチェックメイトをかけられたも同然だ。こいつ絶対自覚してやってやがる…!色々と一杯一杯の私には軍服の裾を握りしめ、彼の肩に顔をうずめるしか恥ずかしさを隠す方法がない。

「あ…あいしてます…。」

口から出たのは蚊の鳴くような声だったけど、彼には無事聞こえたらしい。
頬に優しく触れるゴツゴツとした指。私の顔は多分真っ赤のままだろうけど、視界を閉じてしまえばもう大丈夫。

ファーストキスはチョコレートの味がした。

OBack