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世界に愛された少年


「お前は世界に愛されているんだよ」

とは、彼の口癖だった。

真理と化学式に仕える身でありながら、彼の言葉はどこか宗教じみて真摯だった。
薄汚れて雑多な印象ばかりが強い研究所で、いつだとて目を射るように白い研究衣に身を包んだ彼の姿は世界から切り取られたように鮮烈で、きっとこのひとは本当のところひとという生き物ではないのだろうと、幼い僕はそう本気で思っていた。
彼は僕の親ではなかった。
それでいて、僕に唯一、愛という言葉を与えた人だった。

僕は化け物になることを望まれて、そこにいた。
毒に対する異常なまでの、異端なまでの耐性。その能力を試すためにか伸ばすためにか、あるいはどちらもだったのだろうか、とにかく僕はその能力が故に、そこにいた。
計り得ない能力を持っているとは言っても当時の幼い僕は実際ただの子供に等しく、だからこそ、彼は僕の殆ど一切を管理する形で常に僕の側にいた。
幼い僕の体が少しずつ生物としての成長を得る課程において、彼はずっと僕の側にいたが、それでも僕らは親子などではあり得ず、研究者たる彼は錠剤で、粉末で、液薬で、点滴で、注射器で、皮膚に、内蔵に、血管に、粘膜に、――考え得るあらゆる方法で、僕に数多の毒を注いだ。

「お前は世界に愛されているんだよ」

僕にそう言いながら、彼は僕に毒を投与し続けた。
毒の作用にのた打ち回り、血反吐を吐きながらそれでもどうにか死線の先から這い戻る僕を観察し、計測し、一つ頷いてはまた新たに毒を投与する。その、繰り返し。
思い出したように世界の愛を語る以外には、本当に無機質な男だった。

愛とは何だ、と、問うたこともあった。
世界に愛されているとは、どういうことかと。
身体が回復しきるまでの小休止のようなまどろみの合間に尋ねることもあれば、血反吐や吐瀉物にまみれながらヒステリックに問い質したこともあった。
何度も何度も訊ねる僕に、けれど彼の答えは決まり切って同じだった。

「世界は広いが、案外小さいものだ」

肝心の愛の意味など教えてくれずに、そんなことばかりを言う男だった。

しかし、腑に落ちるところもあった。
研究所の独房にも似た狭い一室で過ごす僕にはそこが全てで、本当の世界など知りようはなかったから、彼の言葉は皮肉じみて真理だった。

小さな小さな、僕の世界。
そこには僕と彼しか居らず、それに気付いた日、彼は僕の世界になった。

「お前は世界に愛されているんだよ」
いつもの調子で、彼が言った。
手にした注射器の針先から空気を抜きながらの、いつも通りに何気ない言葉だった。
「僕も、」
言葉を紡ぐことに慣れない舌をどうにか動かす。
「僕も、愛せるかな」
彼の定型句に対して、初めて返した言葉だった。
彼は凡庸な奥二重の目をぱちりと瞬かせて、それから、ゆっくりと笑った。
「愛されていることを知っていれば、愛せるさ」
ならば僕はあなたを愛したいと、あの頃の僕には言えなかったけれど。


研究所を出て、僕の世界は限りなく広くなり、本当の世界に近しいものになった。
僕と彼の二人だけの世界は遠い過去のものになった。
もう僕の傍に彼はいない。親子ほどに近しく日々を過ごした僕らの関係は結局研究者と研究対象でしかなく、そうである以上研究所を出る僕と研究者である彼が共にいる理由も必要も、口実も無かった。

「……世界は僕を、愛しているだろうか」
夕暮れに沈んでいく街にそっと言葉を落とすのが癖になった。
いらえはないと知りながら、それでも、遠く小さいあの世界からの答えを待つように、僕は世界に問い続ける。




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