精一杯に仰け反ると、椅子の背もたれがギシリ…と嫌な悲鳴をあげた。
上半身をほとんど机に預けている状態にも関わらず、オレと正対して覆い被さるように立って。
なおかつ顔をこれほどまでに近付けられるのだから、やはりスタージュン様は背がとても高い。
羨ましい――って、何冷静に状況分析してんだオレ!?
不味いだろ、ヤバいだろ。
ギシリ…椅子の背もたれが耳障りな悲鳴をあげる。
重力に従って垂直に垂れたスタージュン様の髪が、さらりとオレの頬を撫でた。
このシチュエーションは、ヒジョーにマズい。
「ス、スタージュン様?」
「何だ、苗字」
「…近くないですか?」
「当たり前だ。近づけているのだからな」
離れてください。そういう意味で言ったのに、この上司ときたらまったく分かってくださらない。
いや待てよ、副料理長の中で一番言葉が通じるこの人のことだから、もしかして業と分からないフリをしているのかもしれない。
嗚呼、なんて厄介なんだ!
内心でヒィヒィ言っていると、スタージュン様の口唇がほころんだ。
「これで、逃げられまい」
台詞だけ聞くと、悪役のそれだが、艶言に聞こえるのは相手がスタージュン様だから…だろうか。
真っ直ぐオレを見つめる両眼から逃げられない。
思わずゴクリと咽喉が鳴った。
「苗字、あの時の返事を聞かせてもらおうか」
「へ、返事ですかっ」
いきなり核心を突いてこられて、思わず吃る。
あの時、そうあれはちょうど一週間前のことだった。
忘れもしない。
オレは、ここで、このフロアで、スタージュン様に…スタージュン様に――
「苗字」
「――へ?」
「惚けるな、戻って来い」
おっといけない。危うく思考を持っていかれるところだった。
飛びかけた意識を現実世界に呼び戻した人物は、皮肉にもオレを困らせている人と同一人物だった。
危なかった…危うくアブナイアブノーマルな世界に飛び込むトコだった。
思考が現実世界に戻って来たら、頭もミョーにすっきりした。
やっぱりオレ、女の子が好きだわ。
年下の、ショートヘアーの、可愛い系の、女の子。
頭の中で呪文のように繰り返すと、あれほど艶っぽく見えたスタージュン様が、不思議とただの上司に見えた。
いや、最初っからスタージュン様はただの上司だ。
そう思えたら、嘘みたいに心が軽くなった。
「あのですね、スタージュン様。オレ、やっぱり女の子が好きなんです」
一週間、悩んでいたのが馬鹿みたいだ。
「だから、申し訳ありませんが…っ!?」
オレはスタージュン様の告白…というか誘いを断ろうとしていた。
というか、途中まで断れていたのに中断せざるを得なかった。
「っ…」
唇に温もりを感じたのは一瞬だった。
慌てて顔を背けて、震える片手で口を覆う。もう、血の気が一気に失せた。
今何されたオレ、今何されたオレ今何されたオレ!?
「スタージュン様!何をするんですか!!」
ショックと嫌悪で、相手が上司ということも忘れて怒鳴る。
そうでもしないと頭がおかしくなりそうだった。
「早く退いてください!!」
我ながら物凄い剣幕で怒っているというのに、スタージュン様はまったく動じない。
面倒くさそうに「黙れ」と言った後、オレの両肩をデスクに押し付けて、再び唇を重ねてきた。
しかも今度は深い方だ。
「っ…ふ」
ヌルリと口内を犯される感覚に背筋が粟立つ。
こんなキス、女の子にだってされたことないのに。
いや、今の言い方は間違いだ。オレはいつだって女の子をリードしてきた。
そうだ、いつだってオレは女の子が好きなんだ。
…狙っている子だっているんだ。
それなのに、それなのに。
唇が離れた。
「す、たージュン様…」
オレは情けないことに息があがってしまった。
途切れ途切れに名前を呟くと、スタージュン様は愉しそうに目を細めた。
反則だろう、こんなの。
「スター、じゅん様…」
もう一度名前を呟くと、スタージュン様はもう一度オレに口付けてきた。
三度目の甘いキスに、思考がどろりと溶けてゆく。
ギシリ…オレの代わりに椅子が抗議の悲鳴をあげる。
ギシリ…無理な体制にオレの背骨も悲鳴をあげる。
でもオレには、背骨が痛いとか、男にキスされて気持ち悪いとか、そんなことを考える余裕は無くて。
いつの間にか自由になっていた両腕で、スタージュン様のワイシャツにしがみついていた。
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bkm