踊り明かす夜を待つの
風が吹いた。
ジタンを突き抜けた一陣の風は淡い紫の髪を靡かせ、白い大地を薄く覆う水を蹴り上げ、宙を舞う水滴がきらきらと光を反射する。褐色の顔に得意気な笑みを載せる疾風はジタンには目もくれず、遥か遠くに走り去っていった。
「まったく、逃げ足の速いこと」
とことこと愛らしい足音と共に大きく吐き出されたため息が聞こえて、ジタンは事態のすべてを把握した。自然と口元に苦笑が浮かぶ。
「やあ、博士。今日はまた何の騒ぎだい?」
「女性としての作法の、ほんの初歩を教えようとしただけですわ。あれでは淑女の風上にも置けませんもの。サルですわ、サル」
シャントットはちら、とジタンを見上げ「あら、失礼」と悪びれなく詫びた。ジタンは尻尾を揺らして「気にしてないさ」と軽く流した。しかしジタン以上にヒトという外見の枠からはみ出たこの小さな女性も、口調こそ慇懃だが二言目には「ぶっ潰す」だの「破壊の衝動」だのと口走るので淑女と称するには甚だ疑問が残るが、ジタンがそれを言葉にすることはない。実験体として消し炭になるのは御免被りたい。
かしゃん、と金属が水を踏む音。視線を上に向けると、小柄な淑女の隣に青い甲冑を纏った美丈夫がやってきた。おそらく彼も、風に置いていかれてしまったのだろう。
シャントットは青年を見るなり腰に手を当て、半眼でねめつける。
「ほら、ボーっとしてないでさっさとプリッシュを捜してらっしゃい」
「私が、」
「飼い犬なら、飼い主の後始末をするのは当然の義務でしょう。三時間猶予をあげますわ。連れ戻せなかったら試作魔法の被験体第一号にして差し上げますから、そのつもりで」
小さな人差し指を突きつけ一気にまくし立てると、満足したのかフン、と鼻から息を漏らして踵を返した。愛らしい後ろ姿でとことこと。青年に拒否権はないらしい。
ご愁傷様、とジタンは青年を哀れんだ。青年も茫洋とした面に困惑を滲ませている。
「災難だな」
「彼女の足はとても速い。私では追いつけない」
もっと足が速ければ、と青年は申し訳なさそうに呟いたが、そこまで気にすることはないだろう、とジタンは思った。元々貧弱とは程遠い足腰はプリッシュに引っ張りまわされ、シャントットの実験から逃げ続けているうちに更に強靭になり、重い鎧を着込んでいるとは思えない軽やかさで戦場を駆ける。
「相手が悪いってやつだ、しょうがないさ」
そう励ましたが、青年は途方に暮れた顔で静かに瞬きを繰り返すだけだった。その様子があどけなく感じられ、ジタンは頬の筋をじんわりと弛ませる。この世界はなかなかどうして、容姿と精神の成熟が一致しない者ばかりで構成されている。それがまた、面白い。
「――よし、ここはオレが一肌脱ぎますか」
「脱ぐ?」
「おう! オレが代わりに、プリッシュ嬢を捜してきてやるよ」
不思議そうに目を開いた後、意味を呑み込んだのか「しかし、彼女はもう遠くへ行ってしまった」と青年が低い声で心配そうに呟く。ジタンはニヤリと不敵に一笑し、自らの胸をどんと叩いた。
「レディのことなら、オレに任せてくれよ」
れでぃ、と無垢な口の中で言葉を転がす青年に、「お子様にはまだ早かったかな」とジタンは笑い声をもう一つ寄越して聖域の外へ飛び出した。
この夜空は明るすぎていけねェ。
プリッシュは空を睨みながら似合わぬため息をついた。白い雲浮かぶ晴天、風になびく青い草原。明るい昼の風景は好きだが、静かな夜の星空もまたプリッシュの好きなものだった。
でも、この空はイマイチだ。でかくて青い月のようなものがやたら輝くものだから、星の光が隠れてしまっている。これじゃあ、気晴らしにならない。
「どいつもこいつも、よけーなマネしやがって……」
「誰がなんの真似してるって?」
靴底が小石を擦る音と、何故か楽しげな少年の声がした。隠す気もない気配を感じた時点で誰が来たのかはわかっていたし、そもそも自分をこんなに早く見つけるのは一人しかいない。だがそれを認めてしまうのは、つまらない。
「てっきり、アイツが来たのかと思ったぜ」
「あんな男前と間違えてくれるなんて、光栄だね」
嫌味が通じない。というかそれすら喜んでるような。努めて寝転んだまま空を見上げているが、星の数はもうどうでもよくなってしまった。
とん、とすぐ側の地面が揺れてジタンが腰を降ろす。当たり前のように隣に座られ、プリッシュはむ、と鼻筋に皺を寄せた。
「帰れよ」
「白馬の王子が迎えに来たんだぜ? もう少し喜んでくれよ」
「そーいうキザったらしいの、俺がキライなの知ってっだろ?」
観念して顔を横に倒すと、締まりのない顔で笑うジタンがいた。髪と揃いの金色の尻尾が、青白い夜の光の中上機嫌で揺れている。
青年には少しばかり見栄を張った。ジタンは逃げ出したプリッシュが何処へ行くか、予め知っていたのだ。それは自分の持つ特権なのだと、ジタンは密かに胸を張る。
「で、今日はまたなんでご機嫌ナナメなんだ?」
「とぼけんなよ、おばちゃんから聞いてるくせに」
おばちゃん、とはシャントットである。何度命の危機に晒されてもなかなか直らないこの呼び方に、プリッシュの意地のようなものをジタンは感じている。
「そりゃ、話は聞いたけどさ、そこまでふてくされるものでもないだろ? いつもの実験に比べたらずっと常識的じゃんか」
「俺にとっちゃ、実験で追い回される方がマシなの」
ハッ、とプリッシュはため息と嘲笑が混ざった息を吐いた。
「この、俺が、『わたくし』だの『ですわ』だの言うんだぜ? 想像しただけで気絶しちまうよ」
「……いや、それはそれでなかなか乙――」
顎に手をやり、真面目な顔でウンウン頷くジタンをこのやろ、と蹴っ飛ばす。いてえ、と大袈裟な悲鳴に背中を向け、プリッシュは寝返りを打った。
「なんだよ、そんなに拗ねなくてもいいだろー」
「拗ねてねぇ! だいたい、なんで女だからって言葉遣い気にしたり、おしとやかにしなきゃなんねぇんだよ。なんでスカートの下にスパッツ履いちゃいけないんだよ!」
「まあ、男のロマンとしては履いてない方が……」
「もっぺん蹴るぞ」
「スンマセン」
ジタンが覗き込んでくるが、プリッシュは地面にくっつくようにして顔を隠す。
「どうせおまえも、女らしい女の方が好きなんだろ! おじょーひんで、ピラピラしたドレス着て、ダンスとか踊るような」
プリッシュはやけくそに吐き捨てたが、ぶは、と遮るようにジタンが吹き出した。思わず振り返ってしまうと、ジタンが顔をくしゃくしゃにして笑い声を堪えている。
「なんだよ、笑うとこじゃねーぞ」
「や、悪い。……そっか、それで不機嫌なのか。冥利に尽きるなぁ」
訳の分からないことを口走り、ジタンは一人ニヤニヤと笑っている。なんとも悪い予感がしてプリッシュは身を引いた。
「なあ、オレと踊りたい? ドレス着て」
「は? なんでそうなるんだよ」
「ずいぶん具体的に言うからさ、そういう願望があるのかなって」
「なっ…」
正体不明の恥ずかしさがプリッシュの爪先から頭へ駆け上がる。ジタンはその様子が見えたように、ますます目を細めた。
「意外とロマンチックなんだな」
「ち、ちげーよ! なんで俺がドレスなんか……」
「似合うと思うぜ?」
「茶化すなよ!」
拳を握ったプリッシュを見てジタンは子どもをあやすように微笑む。
「ドレスなんかなくたって、プリッシュは素敵だよ」
束縛や鬱屈、人が足を掬われがちな柵の一切を抜き去り、誇らしげに駆け抜ける姿。誰にも捕まらない自信に満ちた笑顔。
まさしく風と呼ぶに相応しい颯爽とした在り方こそ、ジタンが抗うことを放棄してしまうほどの、プリッシュの魅力であるのだから。
「おまえはまた……恥ずかしいことをつらつらと」
「照れるなって」
「照れてねーよ」
プリッシュはそっぽを向いて頭を乱雑に掻いた。褐色の肌でその下の熱を隠しているつもりなのだろうが、ジタンには通用しない。獲物を捉える盗賊の眼は今、プリッシュの望む言葉と心を探し出すことに注力されている。
おもしろくない、おもしろくないとプリッシュは腹の奥で悪態をつく。なんでも見透かした気でいるジタンのエメラルドの瞳も、満更でもないと囁く己の軟弱な精神も。
「さあ、お手をどうぞ。お姫様」
俺は踊りたいなんて一言も言ってねー!
「……やっぱりお姫さんの方がいいんじゃねぇか」
ああ、気に食わない! なんでこんな甘っちょろい台詞言わなきゃならないんだ。
「オレにとってのお姫様は、やんちゃで口が悪くて足癖も悪い、世界でいちばん強くて美しい女の子なのさ」
片膝ついて右手を差し出す姿が様になってるとか、夜空が明るすぎて星が全然見えないとか、ぜんぶぜんぶ。
「ちくしょー、惚れられた弱みなんてあってたまるか!」
プリッシュは最後の悪あがきを叫んで、ジタンの右手を乱暴に掴み取った。
writer たけくら大和