氷水


何度目かなど誰も覚えていない世界で、神々が何故か姿を消し、秩序と混沌の境界線が酷く曖昧だったときがある。可哀想に、自身の記憶すらも曖昧な戦士達はどちらの神々に召喚されたかも、誰が敵で味方かも分からずに、継ぎ接ぎでちぐはぐな世界をうろうろと彷徨っていた。移ろう雲のように闇の中を滑り行く彼かもしれない妖魔もまた、他の戦士達と違わずなんの目的も持たずに、持てずに、神々の姿が見えぬ世界をうろついているのだった。記憶が曖昧とはいえ、彼女が見渡す景色は少しも彼女の記憶に引っ掛かることのないものばかりである。砂漠や森が不思議に垣間見える天空に浮かぶ巨大な城、ふわりと儚い青や緑が舞う火の燃え盛る競技場、白く浮かぶ柱が崩れかけた天井を頼りなく支える今にも朽ち果てそうな神殿。そしてそこを彷徨う見知らぬ者と点在する見たことのない物ばかりの世界。普通の人間ならこんな知らないものだらけの場所に放り込まれたらもっと戸惑っているものなのだが、彼女は少なくとも人間ではないのでこの世界にも興味深い、面白い、と笑うばかりである。彼女は様々な、今まで知らなかった沢山の場所をふわふわと訪れてはそれらを興味津々に眺めていたがふと足を踏み入れた世界の断片の一つに、どこか懐かしい匂いを感じ取って彼女はぐるりと辺りを見渡した。そこは頭上に広がる空も、不思議な輝きを閉じ込めた石の大地も、寒さに震える柱にも全てに紫紺と紫苑が満ちていた。所々に不思議な光が走り、奥には何処まで続いていきそうな全く温度が感じられない白い石段がある。生あるものたちには冷た過ぎる闇の世界。彼女はそこを知っていると感じたが、それ止まりだった。記憶は相変わらず頼りなく曖昧で、形を保っていない。しかし、と彼女はなおも辺りに真紅の視線をさ迷わせる。懐かしさ以外に、強い魔力の匂いがするのを彼女は感じていた。すぐそばにその魔力を発している何かがいる。彼女は魔力を追ってふわふわと歩き出す。すぐに一本の柱に突き当たり、彼女は首を傾げてからそこを覗き込む。覗き込んだ石柱の陰には自分の身体を抱き抱えるようにして座り込む子供が一人いて彼女は目を丸くした。その子供は紫苑ばかりで満たされた世界で唯一鮮やかな色彩を手にしていた。身に纏うは目の覚めるような深紅の軽鎧、ふわふわと揺れる髪はまばゆいばかりの金糸雀色で。怯えたように妖魔を見つめる色素の薄い両目は薄萌葱とでも形容すればいいのか。様々な者、例えば妖魔のような生物ですらない者すらうろついているこの世界には不釣合いなほどにその子供はとても頼りなく見えたが、強い魔力を発しているのがこの少年だったことに彼女はさらに驚いた。なるほど確かに神々の戦士ではあるらしい。一人色鮮やかな彼に、左右でも特に好奇心の強い羽の生えた右側の触手がさっそくその顔をつつきに行った。黄が鼻の頭に触れて少年はその時こそ身体をびくりと強張らせたが、それきりだった。人形のように彼は動かない。それとも怯えて動けないだけか、と妖魔は興味津々に少年を眺め回す二つの黄を宥めた。そうして彼女は石のように動かないままに見つめてくる彼の緑の目を見返す。そうして、彼に声をかけた。

寒くはないのか。

面白くもないことを聞いたな、と妖魔を言葉を声に変換し切ったあとで心中で呟いた。こんな状況でする質問としては奇妙なぐらいに平凡だ。しかし膝をぎゅっと抱えている様子が全てから、そう恐怖や寒さから幼い身体を守っているように見えて思わずそれを尋ねてしまったのだ。怯えきっているらしい彼からの返答は期待していない。だが、彼の唇が動くのが見えておや、と妖魔は声のない声を上げた。

あなたのほうが寒そうだけれど、寒い。

幼い声が答える。 怯えの色はあまり感じられない、なかなか落ち着いた声だった。肌のほとんどを外気に晒した自身の姿を見下ろして、たしかにな、と彼女は笑う。人間ならばこんな姿ではこの凍える世界になどいられないだろう。儂はお前とは違う身体をしているから大丈夫だ、と返せば訳が分からないというように彼は僅かに怪訝そうな顔したあと、彼女の周りをうろつく二本の黄を見て納得したような顔をする。先程はただ驚きで固まっていただけなのか、と妖魔が思うほどに少年は落ち着いた様子を見せていた。容姿こそ子供ではあるが、頭の方はそうではないらしい。妖魔は手を伸ばして、膝に回されている少年の腕を一本取った。何をする気か、と緑の瞳が無言で問うたが答えずに剥き出しの腕を撫でる。細い子供の腕は彼の言葉通り体温を失って冷えていて、随分と長い間彼がこの場所にいたことを物語っていた。たしか人間というものは身体が冷えすぎるとあまりよくないのではなかったか。そんなことを思い出して、この子供の身体を暖めてやろうと彼女は考えた。が、にも無機質な石ぐらいしか転がっていないこの世界には何もなく、彼女が操る力は炎や氷を生み出す魔法の魔力とはまた違う力である。彼女は少し考えて、そしてその考えをそのまま行動に移した。少年の背中へ二本の手を回し、そのままこちらに抱き寄せる。驚いたらしく少年が腕の中で暴れるが、身体が温まるまで辛抱せい、と金の頭髪から覗く耳に言って彼女はなおも彼を抱く腕の力を緩めない。冷たい子供の肌がこちらの体温を奪っていく。心臓はないが体温はあるこの身体に初めて感謝した。






writer 融







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