フリオニール×アルティミシア
2012/10/24 21:58


今から思えば、それはただ、鬱々とした世界に娯楽が、春が、欲しかったが為の愚行だ。しかしすべてはそこから始まった。

ようやく完成したそれは、花の精が陽炎のように立ち上る風にも見えた。
月の明かりだけが頼りの下、分厚く重なりあったものがくっきり写し出される。
輝くばかりに白い花が、頭上遥かから、視野を覆い尽くして降っている。
細やかな無数の枝は一度天に向かって吹き上げられ、花の重みに耐えかねたように足元まで垂れ下がっている。
私は指一本動かすこともなく、その様を凝視した。
しだれ梅の花は降りしきる雪のように辺りを目映い闇に沈め、閉ざす。
そこへ憑かれたように手を伸ばす。

もう少しで手が届きそうだ。

そう思った次の瞬間、闇は二つに割られた。
一閃走って切り崩された場所から、一匹の獣がしゃがんだ格好のままこちらへ向かって跳んでくる。
迫りくるざらついた砂色の、光る一対の瞳は、私の蒼白い首筋を捉えていた。
獣は跳躍しながら下から上へ前脚を振り上げた。
茫然と獣を見やった。

…いや待て、これは獣ではない。
そうわかった途端、獣のしなやかな体つきは近寄るごとに逞しく浅黒い人体に、逆立った鋼色のたてがみは若者の、険しく強ばったものに変化する。

長い前脚が繰り出す迷いのない攻撃のように、薙ぎ払う所作はぎらつく剣閃となって襲いかかった。
顔を上げる私の、思わず仰け反って剥き出してしまった腹に、袈裟斬りでできた線が走る。
間合いを抜けられることなどかなうはずもない。
ようやく致命傷を逃れ、流線型を描く刺青に囲まれて、ぱっ、と赤い花は咲いた。

いつもの慈悲深く、彫像のように完璧な、氷を意識した微笑はない。
舌打ちする間もない。
しかしため息が漏れ出でるのは自分でもわかった。
強膜の青白く光る目はかち合ったが、その視線もすぐに外れた。



奇襲をしかける戦法に長けているフリオニールだが、今回は決して狙っていたわけではない。
それでも夜中の森を、しかも自分達の野営しているところから程近い箇所をうろつく敵陣の魔女を、彼は見逃すことなどできなかった。
対して装飾過多の重そうな頭部を頼りなげに揺らす女がその足を止めたのは、その森を開いて流れる川の土手でのことだった。

枯れ木だ。
群生した枯れ木が四、五本、そこにはあった。
倒れて腐りかけているものから、干からびてしまったものまで様々だが、生きているものは一つもなさそうだ。
汚れることもいとわず、ぬかるむ地を踏みしめ、彼女はその周りをくるりと一周する。

燃やす気か。
ふと、熱された大気とともに揺らぎ、金色の火の粉を振り撒いて焼ける野原と、そこを逃げ惑う仲間たちを想像し、物陰から様子を窺っていた彼はぞっと鳥肌がたつのを感じた。

もしそうなら、そうなる前に、阻止しなくては…。
咄嗟のことで飛び道具を忘れてしまった彼は舌打ちし、血の色をした剣の柄へ手を伸ばした。
女は木々の間の、相変わらずぬかるんだ大地にゆるゆると手を置く。
かちり、重い音とともに、魔法を放つ為の仄かな光がその手に灯る。
灯った光はやがて地に移り、陣を描き出す。一言の詠唱も聞かぬまま光は一帯に流れ、弾けた。

冷たく硬い土に変化が訪れたのはその次の瞬間だ。
黒々としたそこに一つ、二つ、三つと、あとからあとから湧き出るように白いものが出てきたのだ。
それらは一度出ると今度は地を離れ、萎えていた木の枝に寄り集まっていく。
雪らしきそれはフリオニールの足元まで湧き始める。
一つ掴んでみれば、それは雪ではなく、花びら。しかし僅かに香るそれは桜ではなく、梅の甘い匂い。
フリオニールが凝視する中気づかぬ彼女は大地から手を離した。
もう一度かちりと音をさせ、時を巻き戻すのを止めた。
また丁度良い時期に止めたものだ。
幾分艶を取り戻した細い木は風で揺れ、枝につけた満開の花ばなはこぼれる。

女は彼に振り向いて微笑んだ。
……ように見えただけで、実際には満足感から辺りを見回しただけだったのだが、彼にとっての動機はそれだけで充分だった。
ばれたのだと勘違いしたフリオニールは剣を抜きながら足を踏ん張って、茂みを飛び出した。



腹に手ひどい傷を負った彼女は、突如現れた敵への恐怖と与えられた苦痛、恥辱に顔を歪めながら慌てて消えてしまった。
無我夢中で一方的に襲っていた彼ははたと立ち止まって振り向いて景色を確かめる。
幻ならば彼女が消えたら消える筈だ。
しかし消えることは愚か、揺らぎすらせず、こごった空気以外ここは何一つとして変わらない。
白い花はゆっくりと足元へ舞い落ちていく。
落ちた花びらの上から彼女の血が彼の剣を伝ってしたたり落ちる。

…ひょっとすれば、彼女のあれは時間を巻き戻す魔法だったのか。
その動機がきまぐれか、なんなのかは確かめようもないが。

わずかに仰向いた喉のあたりの透き通るような白さ、何か言いかけて震えた唇の鮮やかな朱が、夜目にもはっきり見えたのを焼き付けた彼は、剣を何度か川に突き立てて水気を拭う。
彼は戦士として有能であると同時に、平時ならば物の動議もよくわかる、聞き分けがよく素直で利発な男だ。
だからこそ突然襲ったことへの申し訳なさと、人と変わらぬ驚愕、恐怖、苦痛が入り交じる、彼女の浮かべた苦悶の表情にただならぬ色香、愛着、興奮を感じたことに対し、少し後ろめたくもあったが、それをからかうようにどす黒く染まった花びらを含め、数枚は一迅の風にさらわれ、流れる川の水面へと消えた。





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