アーサーが国だと知ったからと言って、私たちの生活が大きく変わるわけではなかった。
アーサーも私も平日は会社に行って、カレンダー通りの休日を取る。私は製薬会社に勤めているけど、アーサーはどこかの会社の会社員であることしか知らない。確か一年前くらいに本田さんという人の良さそうな男の人を、会社の同僚だと紹介されたことがあったけれど、それ以来仕事の話は聞かなかったし、アーサーもしなかった。アーサーは英語と日本語はもちろんフランス語も話せたから、海外の方の仕事をしているんじゃないかなぁなんて、勝手に思っていた。よくよく考えると、私はアーサーのことをよく知っている、わけではないのだと気付いた。
「名前、今日休みだろ」
「うん、土曜日だし。最近は休日出勤とかないしね。アーサーはどっか出掛けるの?」
昼には早いが朝には遅い時間。そんな微妙な時間に二人で起きて、朝食だか昼食だかわからない食事を取る。きっとおやつを多く食べてしまうんだろうなぁなんてうんざりしつつ、ちょっと焼きすぎたトーストに噛みついた。
「…ちょっと、付き合え」
「買い物?」
「まぁそんなとこだ」
外を見れば青い空が広がっている。洗濯したかったけど、明日でいいか。アーサーが出掛けてしまうなら図書館でも行ってイギリスについて調べようと思っていたのに、今日はそれは出来ないようだ。
アーサーはシャツにジーンズというかなりカジュアルな服装だったので、私もそれに合わせる。持ち物はポケットに入っている財布だけみたいだから、私も小さな手提げ鞄だけにした。
「アーサー」
「なんだ?」
「電車乗るの?」
「おう」
「アーサー」
「なんだ?」
「デートとか久しぶりだね」
「…そうだな」
一つだけ、変わったことがある。
二人で出掛ける時に手を繋がなくなった。キスもセックスもしたがるのに、アーサーは手を繋がない。でも駅までの道のりを歩いていてわかった。
いつも手を繋ぎたいと言うのは私だったし、ポケットに入ったアーサーの手を無理矢理出して繋ぐのも私だった。
変わっていないんだ、アーサーは。同じ、イギリスのまま。
私は少しだけアーサーが怖くなっている。知らない彼が怖いとか、そういうんじゃない。いつかいなくなるかもしれない彼が、怖いのだ。
電車に揺られて、一時間。
降りた場所は、見覚えがあった。
「…あれ、ここ…」
「懐かしいだろ?」
「うんっ、あれ…?あたし、この町出身だってアーサーに言ったっけ?」
降り立ったその場所は私が幼少期を過ごした思い出の土地だった。といっても地名となんとなくの雰囲気を残すだけで、駅前には大きなショッピングモールが出来ているし、人通りも増えている。曖昧に笑ったアーサーはポケットに手を入れたまま歩き出す。
ショッピングモールとは逆さの方の出口を出て、踏み切りを渡るとまだ開発されていない昔のままの風景がそこにあった。
「うわぁ、懐かしい!そうそう、ここ通って学校行ったの。」
長い長い一本道をランドセルを背負って歩いたのを思い出す。普段全く思い出したりしないのに、こうしてこの場所に立つと急に頭の中から引き出される記憶。
あれからもう十年以上が経って、今私はアーサーと一緒にこの道を歩いている。
「名前、三年前のこと、覚えてるか?」
「三年前…?」
「俺と、初めて会ったときのこと」
あぁアーサーは昔の話をしたかったんだって理解した。
ランドセルの日々に比べたら近い記憶、私はすぐに頷いた。
「大学近くの喫茶店だよね」
「ああ」
「あの時のアーサー、すっごい軟派だった。」
“はじめまして、お嬢さん”
外人に話しかけられることだって少ないのに、そんなドラマみたいな台詞で声をかけられて吹き出してしまったのを覚えてる。それをからかうとアーサーは少しだけ唇を尖らせて、お前は紳士がわかってないとぼやいた。
あと数分歩けば私の通っていた小学校に着く。そう思っていたのに、突然アーサーは足を止めた。
「ここだ」
「へ?」
ただ道の真ん中。アーサーは悲しそうに笑う。
「ごめん、名前」
「…また、嘘?」
「うん」
「なに、どれ?」
「あの日言った、“はじめまして”」
アーサーは私を道路の端の電信柱の近くに立たせると、もう一度ここだ、と呟いた。
「本当は、ここで名前を初めて見た」
「は、ここって…あたしがここにいたの小学校までだよ?」
「知ってる。三歳のお前を見たんだ。」
ロリコンとか、ストーカーとか、罵倒する言葉はいくつも浮かんだ。でも言わなかった。言えなかった。アーサーが私の口を塞いだからだ。目を閉じた。唇が重なる前のアーサーは私じゃなくて、三歳の私を見ていたような気がした。
「本当は、二十年前から好きだったんだ」
帰り道は、アーサーの手を無理矢理ポケットから出して繋いだ。
「ロリコン」
「なっ、ぁ、ロリコンじゃねぇっ、!二十歳まで待っただろ!!」
電車に乗る前にもう一度キスをする。
その時のアーサーの瞳は今にも泣きそうだったけれど、ちゃんと二十三歳の私が写っていたような気がした。