こんなのは初めてだ。
仕事が終わり、ようやく家に戻ってきたと言うのにここに入りたくない。入ったらもうきっと、あっという間に終わってしまう。

終わりなんていやだ。
いやだいやだと叫びたい。
子供みたいに、我儘を言いたい。

イライラしているというわけじゃないし、悔しいわけでもない。
ただ、諦めなければならない現実が、どうしようもなく嫌なのだ。悲しい、辛い。怖い。そんな全ての感情が混ざったこの気持ちを、俺は嫌だとしか表現できない。


ガチャリと右手でドアを開ける。月明かりだけの暗かった視界が突然人工的な光に照らされて、温かく感じた。
何か料理のいい香りと、それを作ったであろう彼女の足音がパタパタ聞こえる。すぐに彼女は姿を見せて、にこりと微笑んだ。



「アーサーさん!!お帰りなさい」


「ああ、ただいま」


俺の家に住んでいる名前が、両手を広げて迎えてくれる。今日の彼女はエプロン姿で、いつもなら感激して欲情して飛び込むところだけれど、今日は肩を抱き寄せるだけにした。


「ご飯出来てるんです、あの、今日はビーフシチュー凄くいい感じに出来て。自信作なんですよ?」


「へぇ、期待しとく」


「はい、あ、スーツ掛けといてくださいね」


俺を見上げてそうテキパキと指示を出す。無駄に重い鞄をソファーに投げて、ぐっとネクタイを引いて緩めた。

この部屋はどちらかと言えば名前の部屋だ。
彼女が欲しいと言ったピンクのクッション、ふわふわの白いカーテン。テーブルクロスも、ティーカップもそう。その奥に見えるキッチンにある物も全て名前が選んだものだ。
可愛らしいのが好きな女だ。俺はそういう趣味はないけれど、そんな可愛らしい物に囲まれる可愛らしい彼女が好きだった。今は白を基調として物が置かれているが、前は緑っぽかったし、そのまた前は薄い青だった。
そう、彼女がここに来てから数回部屋の全ての物が入れ替わるくらいの時間が経過している。俺や名前にとってはあっという間、人間にとっては一生が終わる時間が過ぎたらしい。世代は変わっている、そう、時代は変わっているんだ。変化は世の常だと言ったのは、誰だったか。



「アーサーさん?」


突っ立ったままの俺を覗き込むようにして、心配そうに名前が呼ぶ。


「どうしたんですか?座ってください、今シチュー持ってきますから」


彼女の顔を目に焼き付ける。

あぁ、もうだめだ。
もう、無理だ。
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。

いやだ。
耐え、られそうにない。


「アーサー…さん…?」


力一杯名前を抱き締めて、顔を見られないように抱き上げた。


「ちょっ…なんですか、アーサーさん!!」


寝室のドアを開けて、名前をベッドに放り投げて、すぐにドアを閉める。真っ暗な部屋には、微かに月明かりが差し込むだけ。
大きなベッドからこっちを見つめる名前に、そのまま覆い被さった。
白くて、細い手足、組み敷いてしまえば彼女はもう動けない。そうだよ、名前をこの腕に閉じ込めておくことくらい、たやすいことのはずなんだ。


「いきなり何です?ちょ、あのっ、ご飯の後でも…っん…!」


口付けた。
柔らかくて、どうしようもなく気持ちよくて、温かい。
目を閉じるとひどく冷えた頬に涙が伝った。
もう、抑えられない。暗い部屋に、嗚咽が響いた。


「…っ、…ぅ………ひっ…く、そ…」


「…ない、てるんですか…?」


「…いやだ、すき、なんだ…俺は、…名前が、ずっと…ずっと、好きで、すき、なんだよ…」


「…はい、わかってます。大丈夫です、大丈夫ですから、」










それからはもう酷いものだ。
泣きながら名前を抱いて、抱いて、抱いて。
朝まで少しも離さなかった。

ベッドの回りには俺のスーツがくしゃくしゃに投げ捨てられているし、その隣には名前のエプロンと服と下着が落ちている。

雨でも降ってくれればいいのに、こういう時に限って綺麗に空は晴れた。朝になれば光が差し込む。カーテンを通り抜けて、俺たちを照らした。



「名前」

「…なんですか?」


「もう、…大丈夫だからな。」



綺麗な黒い髪を撫でて、名前を抱き締めた。待ち望んでいただろ、ずっとずっと、焦がれていただろ。
いつかこの日が来ないように頑張っていたつもりだった。あの日、着物姿でここに連れてこられたお前を、俺は今日この日までずっと大事にしてきたんだぜ。
でも、もう俺にはそんな力も、意味もない。



「アーサー、さん…」



なぁ、名前、お前は喜ぶだろ?
帰りたいと、願っていたもんな。







「今日、…日本がお前を迎えに来るよ」










幸せのおわり

(彼女は何も言わない。仕方ないんだ、彼女もそれを望むから)


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