きみのことばはぜんぶうそ
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初対面の印象は、宇宙人みたいな人だった。
「おっ、見かけない顔だなあ。新人さん?」
その当時はまだ見習いのエンジニアとして学ばせて頂いているという立場だったわたしと、S級隊員の迅さんが本部のエレベーター内でばったり出くわしたのはほんの偶然だった。あまりに突然だったのでその時なにを口にしたのかよく覚えてはいないのだけれど、突然親しげに話しかけられてびっくりしたわたしは若干おどおどしながらも無難にみょうじなまえです、よろしくお願いします、とか返したように思う。
「みょうじ……あぁ、もしかして君が県外からスカウトされてボーダーに入ったって子?」
「は、はい。一応そういうことになってます」
「なるほどね」
おれは実力派エリートの迅悠一、よろしくー。……そう言ってへらりと笑って見せた彼の姿を今でも鮮明に覚えている。わたしはその表情からなぜだか目が逸らせなくなって、言葉を返すことも忘れてただただ彼のことをぼんやりと見上げていた。
ひとというのはこんな風に笑うものだったろうか。漠然とそう考えた。だって、どうしてだろう。確かに彼は笑っているはずなのに、目の色がちっとも変わらない。
思わず覗きこんだことを後悔するような不思議な色の瞳。底が見えることのない澄んだ水色。宇宙人みたいな、からっぽの色彩。ふとそんな言葉が浮かんでは意識の外へと消えていく。
しかし思ったことが無意識に口から滑り出してしまうというわたしの悪癖は、この時も盛大にやらかしていたらしかった。
「宇宙人みたい……」
「え」
「あっ」
当たり前の話ではあるが、初対面の人間に宇宙人みたい、などと言われていい気分になる人などいないだろう。わたしは予想外という面持ちで固まった彼を見てすぐに自分の引き起こした状況を理解し、その場で「すいませんでしたあああ!!」と土下座した。
「ちょっ……こんなとこ人に見られたら女の子になにさせてんだっておれが絶対に怒られるから、主に忍田さんとか沢村さんとか沢村さんとかに!お願いだから顔上げて!」
「ですがわたしは今とても失礼なことをっ」
「いいって、おれもそんな気にしてないから。な?」
「……ほんとうに、ごめんなさい……」
申し訳なさから俯いていると迅さんが苦笑したのが分かった。
「いやーまあ宇宙人みたいだ、なんて面と向かって言われるのは初めてかもなあ。みょうじちゃんなかなかに見所あるね、これは大成するとみた」
うんうん、とひとり茶化すように彼は笑う。その言葉にはわたしへの気遣いと優しさが籠っていて、でも――その表情に何だか酷く心が傷んだ。だからだろうか、いつのまにかわたしはまた頭に浮かんだ言葉を無意識に口にしてしまっていた。
「あ、あの!初対面で失礼な口聞いたくせになに言ってるんだって感じですが、あなたがわたしみたいなひよっこにまで声をかけて下さる優しい方なんだということはわかります!みんなに慕われてらっしゃるってことも!ですから、あなたは宇宙人かもしれないけど危なくなんかぜんぜんなくて、」
――とても優しい宇宙人なんです。
……最後の方は若干泣きそうになりながら口走ってしまった。何故そんな事を言ったのかは正直自分でも分からない。ただ、その人が哀しそうな瞳をしていた気がしたから、言わなければならないと思ったのだ。
きっと頭がおかしいと思われただろう。今までもわたしはこの悪癖で色々な人に引かれて恥ずかしい思いばかりしてきた。ああやっぱりこの人も困っている、なんでこんなことを言ってしまったのか。すぐに謝るべきなのに先程の勢いが嘘のように全く声が出せず、あまりにも居たたまれなくなって顔を伏せる。
けれど、彼は困惑するどころか、わたしの頭に右手を乗せてわしわしと撫でるように動かした。
「ありがとう」
恐る恐る顔を上げて、思わず息を飲む。先程とは違うやわらかな笑顔。すこしだけ細められた繊細な青。ああ、なんて危ういうつくしさを持っている人なのだろうと感嘆のため息すらつきそうになるほどにその表情に心を奪われて――わたしは無相応にも、もっと彼のことを知りたいと思ってしまったのだ。
未来視のサイドエフェクト。それは目の前にいる人間の少し先の未来が見えるものなのだという。
そんな驚くべき能力を持っている迅さん――何回か話すうちに実は同い年なのだと知ったがなんとなくさん付けのままだ――は、やはり噂以上にすごい人だった。普段はコミュニケーション力が高く人の良い青年という雰囲気の彼だが、非常時においてはその態度は一変する。的確で冷静な対応は戦場では何よりも役に立つものだ。そんな指示を次々と繰り出す姿を見ていると、迅さんのこの力があったからこそボーダーはここまで発展できたんだろうなとさえ気づかされる。
けれどそんな姿を見ているうちにわたしはあることを考え始めるようになった。それはきっと誰しもがなんとなく気づいていることで、それでも誰も変えられないであろう真実だ。
今歩んでいる道が幸か不幸かが分かってしまう、別の道があったかもしれないということを知ってしまう。それはとても残酷な力なのではないだろうか。
本来ならば知らなくても良い筈だったいくつもの可能性というものを視て取捨選択する。そうやって未来を決めて、人々を守っていく。そんなものは人間の触れていい境地ではないはずなのに、どうして世界は他の誰でもない迅さんに未来視という運命を授けたのだろう。
だってあの人はまだわたしと同い年のはずだ。たった19歳の青年だ。普通ならそんなのに耐えられる訳がないし平気であるはずがない。
けれど彼はまだそこに居る。いつも通りの達観したような笑みを浮かべながら、そこに立っている。
(なぜそんな風に笑えるの?)
そんなこと、わたしなんかが考えたって仕方ないことなのだろう。あなたの見ている世界はきっと他の誰にも分からないものだろうから。
でも、だからこそ、わたしにも迅さんと同じようなサイドエフェクトがあったらなあ、と少しだけ思ってしまった。あの人のみている景色が私にも見えればすこしはあの人のことを理解できるのだろうかと――そういったあまりにも自己満足的で滑稽なことを。
そんな思考はあの人の努力に対しての侮辱に他ならないと分かっている。分かっているのにいつまでもあり得ないもしもを考えて、自分がいやになって。今日もまた、優しく接してくれる彼の前でわたしは意味もない笑顔を浮かべることしかできなかった。
「なあ、おまえ聞いた?迅さんが風刃を手放したって」
「まじで?それじゃあS級じゃなくなったってことか」
「っていってもA級で強いことには変わりねーし、迅さんは迅さんだけどなー」
ふとそんな会話が聞こえてきて、作業中だったはずの手が止まる。玉狛のエンジニアとも交流がある立場上、本来ならわたし程度の人間が知らないような機密の情報でもほんのすこしだけ知ってしまう時がある。なので、新しく玉狛に入隊したという隊員が近界民かつ黒トリガーの使い手であり、それの奪取を目的とした本部の精鋭と迅さんの間でちょっとした抗争が起きたというのも察していた。わたしは何年も前、風刃の争奪戦があったときにはまだボーダーに入隊していなかったから詳しいことはデータの上でしか知らないのだけれど、黒トリガーの風刃は迅さんの師匠が作ったものなのだというから、相当執着があるんだろうということくらいは分かっているつもりだった。
けれど彼は、それを手放したのだという。
迅さんのことだからきっとそれは必要なのだと判断してのことだろう。今回ならば例の後輩を正式にボーダーに入隊させるための取引として風刃を本部に譲渡した……ということは、ある程度想像がつく。
そんなことを考えながら歩いていると、またエレベーターの中で迅さんにばったり会った。聞けば会議を終えて玉狛に戻るところなのだという。丁度わたしも夜勤が終って家に戻るところなので必然的に途中まで一緒に帰ることになった。
カードキーを翳して外に繋がる通路を開くと、一気に気温が下がり体がぶるりと震えた。全てが凍てついてしまいそうなほど寒い夜だ。確かにここ数日は今冬一番の冷え込みになると天気予報で言っていたっけ。そんな他愛もないことを考えていると、ふと昼に聞いた話が脳裏に蘇った。
人気のない道路を歩きながらぽつりと呟く。
「風刃。本部に渡したんですね」
迅さんは無言のまま応えない。後ろからでは表情もわからないので、なんだかわたしは酷く情けない気持ちになりながら言葉を続けた。
「迅さんはそれでいいの?」
「うん」
答えが余りにもあっさりと返ってくるものだから、わたしは思わず言葉に詰まる。振り向いた彼は例の達観したような瞳で笑っていた。
「その方が未来が良くなるっておれのサイドエフェクトが言ってたからな。みんなの幸せがおれの幸せだから、なんつってね」
――そのみんなの中に貴方自身は含まれているの?
いつだってそう聞こうとする度に、胸がぎゅうっと苦しくなって、わたしは息を止めてしまう。
本当は分かっている。
これは彼自身が選択した彼の生き方だ。師匠の形見を手放したことは勿論、未来視のことも、彼の中ではとっくに整理がついていることなのだろう。
本人が是として決意したことに口出し出来るほど、わたしは彼の過去を知らない。
それでも認めて欲しかった。本当は辛いのだと、哀しいのだと。
そうしなければ、迅悠一というひとは――誰にも理解されない宇宙人のこの人は、最後には人でさえもなくなって、誰の手も届かない遠い存在になってしまうのではないか。なんの確証もないのにそんな妄想じみた予感がいつか本当になってしまうことが、今のわたしには何よりも恐ろしかった。
だから、できることなら彼の理解者になりたかった。彼をこちら側へ繋ぎ止める存在でありたかった。叶わない願いだと知っていても尚、そう願わずにはいられない。
息が震えて、酷く苦しい。気がつけば目の前は歪んでいて、わたしの冷たい頬はあたたかい液体で濡れていた。
「……そんな顔させるつもりはなかったんだけどな」
わたしよりずっと大きくて温かい体に抱きしめられてぽんぽんとあやすように頭を撫でられる。そうやってわたしが自分の汚い感情を抑えきれなくなって涙を流す度に、彼は。いつもの表情に少しだけ困ったような色を浮かべて、「なまえは泣き虫だなあ」と笑うのだ。
……しかしこの日はほんの少しだけ違っていた。
ふと目の前に褐色の髪があると思ったら、唇に柔らかい感触。それは優しく唇に触れるだけの、キスだった。
抱きしめるとか撫でられるとかは今までにあったけれど、迅さんにキスされるなんて初めてだったわたしは酷くびっくりして涙など止まってしまった。
「え。なんでキス、したの」
んん、と少し考え込むように首を傾げて、彼にしては珍しく歯切れ悪く言葉を続ける。
「おれがキスしたいなーって思ったから……じゃダメ?」
「……他の女のひとにもこういうことするの?」
悪意でも嫉妬からでもなく純粋な疑問だった。誰彼構わず、という訳ではないが迅さんは女性のお尻が大好きらしくよくセクハラをしているので、キスだって同レベルだとしても別に可笑しくはないだろう。正直に言うとわたしは迅さんのことを遊び人だと思っている節がある。根本ではそういう人ではないと知っているのだけれど、先入観とは恐ろしいもので中々その認識を改められない。そんなところを含めて好きになってしまったわたしも悪いとは思うのだけれど。
「しないよ。なまえだけ」
うわあ、なんて定番の常套句だろう。そんな言葉が彼の口から出てくるなんてなんだかとてもおかしくてはにかんでしまう。
「……わたしも、キスしたいと思う相手ははじめてよ」
「そっか。多分、おれもだ」
「ふふ、おそろいだね」
「そうだな」
本当に、愛しくて酷いひと。ひっそりと笑って、心地よい温度の腕の中で目を閉じる。
幾ら濃厚なキスをしても、好きだよと囁かれても。彼の感情がわたしとは違うかたちの“好き”であり、それはわたしにはどうにも出来ない真実なのだということをとうに知っている。彼はきっと、一人の人間のためには生きられない。今こうして寄り添っていても、わたしには一生彼を理解することはできない。
それでもいい。今この瞬間だけでも彼の側にいるという事実さえあれば、わたしは生きてゆけるから。
頭にひんやりとしたものを感じて夜空を見上げれば、いつの間にかちらちらと雪が降り始めていた。
「随分冷えちゃったし、どこかであったかい物でも飲もうか」
おれ、うってつけの場所知ってるんだ。あったかい飲み物がただで飲めてついでに食事もついてきて、ぼんち揚げ食べ放題できるところ。そう言いながらなまえがいいならだけど、とつけ足した彼はいつもよりこどもっぽいような気がした。
「どんなところ?」
「それは着くまでのお楽しみ」
「なにそれ」
そういえば、彼の大切な場所にはまだお邪魔したことがない。そう考えると少し楽しみになってきて、気が付けばつい先程まで泣いていたことも忘れて、自然と笑みが溢れていた。
「そうと決まれば、さあ行こう!」
繋いだ右手を引かれて、わたしはまた歩き出す。明らかに軽くなった足取りに我ながらなんて単純なのだろうと呆れながら。
あなたの唇から紡ぎ出される拙い嘘。それが身体の髄まで蝕む毒と知りながら、きっと私はその蕩けるような甘さから逃れられない。
2015.04