喧嘩をした回数なんて数え切れない程で、それは最早四桁といっても過言ではない。つまりはそれほど顔を合わせる度に啀み合い、けれども縁を切ろうとかもう二度と関わりたくないとか、そんな風に思ったことは今までに一度もなかった。


そう、ただの一度も。
だけど今回は勝手が違う。
幼なじみのベルフェゴールはブルーベルを許せず、ブルーベルもまた、彼と口を利くことはなかった。



事の発端は、ブルーベルの兄がベルフェゴールに水泳大会の話をしたこと。


ブルーベルの才能は“泳ぐこと”だった。誰よりも速く、何よりも速く水中を駆けることが出来る。まるで童話に出てくる人魚姫のように。それは誰にでも出来ることではない、きっと彼女以外には出来ない。生まれ持った才能。

それ自体は喜ばしいことであるし、オリンピック出場が決まったと聞いた時は練習に付き合ってやろう、くらいの意気込みでいた。




彼女の兄に今後の話を聞くまでは。




「…なんで黙ってたんだよ」
「……」
「なぁ、」
「あんたに関係ないでしょ」

苛々して彼女の顔の真横に手を付き、更に片手で壁を殴る。大きな音は部屋中に響き渡り二人の鼓膜を振動させた。それでもベルフェゴールの苛立ちは治まることはない。


「オレだけ知らねーとかあり得ねぇんだけど」


半ばため息混じりに毒突いた。いつも喧嘩こそしていたものの、家も近所で今までの長い時間を共に過ごしてきた間柄だ。それなのに。


「…金メダル獲ったら、引っ越しするって?」


知らなかった。彼女が今回の大会で優勝し、金メダルを獲得したら。

設備の良い環境を整えるために遠い所へ引っ越し、そのまま二度と戻って来る予定はないらしい。それはつまり、もう会えなくなるということを意味している。


そんな大事な事実をベルフェゴールだけが知らされていなかった。何かあれば自然と一番に相談できる、そんな関係だと思っていたのは自分だけだったらしい。

ブルーベルの兄も彼女から既に聞いていたものとばかり思っていたらしく、知らないと答えれば驚きの表情が返ってきた。見様によっては口を滑らせた、と焦る表情に見えなくもない。まぁそんなわけでコイツの部屋に押し掛け真相を確かめたら案の定本当らしい。オレの中のコイツに対する何かが一気に冷めていく。



「…いっつも喧嘩ばっかだったけど」

「……」

「オレ結構お前のこと」



───気に入ってたんだけどな。


バタン。
ベルフェゴールが部屋から出ていくと、無情にも二人の間を裂くようにして扉が閉まる。

ブルーベルは静かに俯き、そして追いかけることはしなかった。


「…なによ、言えるわけないじゃない」

あんたにだけは、言えなかったのよ。












オリンピック当日、ベルフェゴールの元に一本の電話が入った。


それはブルーベルの肉親からで、幼い頃から世話になっていたこれまた幼なじみ。小さくため息を吐きながらも無視は出来ずに電話をとると、その内容は一刻を争うものだった。



急な仕事でブルーベルの応援に行けなくなった、と。


昔から二人を傍で見守ってきたベルフェゴールにはそれが何を意味するのかが鮮明に理解できる。

ブルーベルは才能こそあるものの、それを発揮する条件が極端に狭い。決定的な弱点というやつだ。その弱点とは彼女の一番大切な存在が傍にいること。そう、つまり“兄が傍にいること”だった。



その絶対条件を欠いた今、ブルーベルに勝ち目はない。しかし当の兄貴はそうは思っておらず、あろうことかベルフェゴールに代理を頼んだのだ。幼なじみの彼に。


「…兄妹揃って振り回しやがって…、」


オレに何ができるんだよ。あいつは今回のことをオレにだけ隠してたんだぜ?つまりはその程度の存在だってことだろ。それなのにお前の代わりなんて。大体、今から会場に向かって間に合うわけねーし…




今オレが行くのをやめれば、ブルーベルは負けて引っ越さなくなるんじゃねーの?



行くか否かの狭間で迷う。そもそも確率はフィフティフィフティ。彼女の未来をとるか自分が彼女といる未来をとるか。もう迷っている時間はない。


ベルフェゴールは一つの未来を選択した。












…先程からソワソワと落ち着かない。兄が来られなくなったという電話を受けて、すっかりプレッシャーに押し潰されそうになっていた。


だいじょうぶ、だいじょうぶ、大丈夫。今までだってブルーベルは誰よりも速く泳いでいたのよ。お兄ちゃんがいなくたって、それがなによ。べるとけんかしたから、それがなによ。


自分に必死に言い聞かせて、プールの上に張り出した形状の飛び込み台へと上がる。もう本番は目の前。沢山の人々。大好きな水。


───後には引けない。


「………」


でも、もしここで負ければ。ずっと…あいつと一緒にいられるんじゃないの?だったら、いっそ。


深く息を吸い静かに始まりの合図を待つ。頭の中で、飛び込む合図が出るまでのカウントダウンを始めた。


ご、



よん、



さん、




に、






いち、







『ブルーベル!』

「!?」


会場は広い。観客達で溢れ、ごった返している。その中で聞こえるはずのないその音をたしかに彼女は聞き取った。


『負けんじゃねぇ…!』




なによ、ばかべる。珍しく声なんか張り上げちゃって。ブルーベルはあんたのこと、許したわけじゃないんだからね!でも……あんたの前でかっこわるいとこ見せられないわ。見てなさい、今から世界一の泳ぎを見せてやるんだからっ!




─静かに放たれた合図。
その瞬間、水面にマリンブルーの華が咲き乱れた。






あなたの声は私を人魚にした






首に掛けられた金メダルを見つめながら、控え室のベンチに座る。困難を乗り越えて掴んだ勝利だ。それなのに……ちっとも嬉しくないなんて。

金メダルを獲得した選手でここまで喜ばなかった人物は恐らく人類史上初ではないだろうか。もう自分は戻れないところまで来てしまった。



不意に携帯電話が鳴る。連絡を取り合えるようにと兄に渡されたそれを、ブルーベルはゆっくりと手に掴む。


「…もしもし」
「ししっ、……優勝オメデト」


べるの声だ。
複雑な気持ちで口を開く。そしてそこから紡ぎ出されるのは相も変わらず可愛げのない言葉の数々だった。


「とーぜんじゃない」
「…んなこといって直前までお兄ちゃんお兄ちゃん煩かったんじゃねーの?」
「にゅ、そんなわけないでしょ!それに、あんたが応援に来なくたって…っ」
「………」
「…、」


思ってもいない嘘ばかり。こんなのただの八つ当たりだ、強がりだ。ほんとはべると離れるのが嫌で嫌でいやでいやでいやでいやで仕方ない。離れたく、ない。

「…なぁ、ブルーベル」
「……なによ」

途端に真面目なトーンで話しだすベルフェゴール。最後の最後まで喧嘩なんてしたくないと耳を塞ぎたくなる衝動に駆られるも、結局そのまま続きを促してしまう。


これがほんとに…さいご。





「…会いにいくから」

「………えっ?」

それは想像していたものとは違っていて。ツーッと、なま暖かい何かが頬を伝った。


「必ず会いにいく」
「…うん、」
「電話もする」
「うん、うん…ッ」
「…それから」
「べる、」
「…ん?」




「…すき」


オレも。電話越しの君の声は、少しだけ震えていた。




2011.10.11





 
お題を見た瞬間からこのネタが浮かびました。ベルのおかげで実力を出せるようになるブルーベルのお話。そして彼女の兄は二人を仲直りさせるためにわざと来なかったという裏設定。

素敵企画サイトda capo様へ捧げます。参加させて頂きありがとうございます…!

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