「ありがとう、名前。君の口から直接本心が聞けて嬉しい」
「いえ…御耳汚しになってしまってすみません」
張り詰めていた空気が無くなり今の私の心と同じ穏やかな空気が私達を包む。私の好きと憲紀様の好きは違うけど、慕ってると言われて嫌な人はいないだろう。彼の嬉しそうに見える表情はそう理由付けする事にした。
「そんな事は無い。私は君と共に居られればと思っている」
「私もです。憲紀様」
「時期を見て籍を入れよう。名前の実家にも行かなければな」
「…………はい?」
憲紀様の言葉に耳を疑う。今籍を入れようとか私の家に挨拶に行くとかそんな事言ってなかった?そういえば好きだと言われて浮かれていたせいかその前から話の内容に違和感を感じる。
「聞こえなかったのか?私は時期を見て籍を入れたいと言ったのだが?」
「籍とは…結婚の事ですか?」
「それ以外に何がある?」
「……」
結婚?私と憲紀様が?全く現実味の無い話しに私の頭の中はまた真っ白になってしまった。
「私と婚姻を結ぶのは嫌なのか!?」
「いえ、そうでは無くて…」
嫌とかそんな問題では無い。婚姻なんて私と憲紀様の身分の差がありすぎて現実的にあり得ない事だ。未だに頭の中を整理できない私とは対照的に憲紀様は安堵した後、真剣な口調で私に話しかける。
「好きな者同士が婚姻を結ぶ。至極当たり前な事だよ。私は君に好きだ、と伝えた筈だぞ?」
「それは…お世辞なのかと……」
「……」
今度は彼が黙る番だった。眉間に皺を寄せて何故そうなる、とでも言いたげだ。
「申し訳……」
謝ろうと再び頭を下げようとした矢先憲紀様の手が私の左頬に触れ、それを制した。驚いて顔を上げると憲紀様は真剣な表情をしていて、胸がときめく。
「名前、私の妻になって欲しい」
そして私は再び息を飲んだ。
「これなら伝わるだろうか?」
不安そうに尋ねる憲紀様に対して私は夢の中にいるのではないかと疑っていた。
「それは…」
「嫌なのか?」
触れていた頬にある手が少しだけ離れそうになり反射的に憲紀様の手を両手で掴む。
「嫌ではありません!」
「なら何故?」
「私の気持ちは恐れ多いですが憲紀様と同じです。……ですが…憲紀様の正妻様に成る事は出来ません」
出来るわけない、私と憲紀様が夫婦になるなんて。そんな事憲紀様が1番わかってるはずなのに。私に想いを告げてくれた事実はすごく嬉しいけど同時に悲しみが襲う。
「何故だ?」
それでも憲紀様は本当に分からないみたいだった。彼の真面目な性格と似た真っ直ぐな視線に耐えきれず私は顔を伏せる。
この人達の結婚は一般的な物では無い。例え双方に結婚の意思があっても身分が違えば結ばれる事はできない。御三家の当主の婚姻ともなれば他家よりも秀でた女性との結婚が当たり前のはずだ、世間一般の普通とは違うのだ。
それに私は側女として招かれている身だ。側女を正妻にするなんて彼の立場が無くなってしまう可能性だってある。加えて私と結婚するなら再婚になってしまう。再婚相手が側女だなんて心象が悪すぎるし、内部に敵がいる憲紀様を私のせいで危ぶませたく無かった。
「憲紀様をお慕いしております。ですがやはり、貴方様の妻にはなれません」
「想いは通じ合っているのにか?」
「はい」
憲紀様の妻になるとかそんな事考えた事も無かったから、なりたいかと聞かれれば正直よく分からない。けれど憲紀様の側にいられるのなら妻になりたいのだと思う。でも私と彼が結ばれる事を望んでも現実は厳しい。それは夢で終わってしまう事になるだろう。本当は素直に喜べればいいのにと叶いもしない現実が心を締め付ける。
「分かった。今はそれでいい。加茂家当主の妻になるのは覚悟もいる。だが絶対に君を私の妻に迎えてみせる」
「お気持ち嬉しいです」
それでも憲紀様の決意が嬉しくて、胸が押しつぶされそうだった。
「初めてだな、名前が私に触れてくれたのは」
憲紀様の言葉と視線に私は今更ながら彼に縋るように掴んでしまった自分の両手に気づいた。ゴールデンウィークの時は裾を掴んでしまったけど、直に憲紀様の肌に自分から触れたの初めてだ。咄嗟の事とはいえ勝手に憲紀様に触れるだなんて不敬に値する。
「申し訳ございません」
「謝らないでくれ」
私は触れていた手を離そうとしたけど憲紀様はすぐに私の手を掴み離れる事は無かった。逃さまいと掴まれた手は優しくて、温かくて、ごつごつとした大きな男の人の手に緊張しつつ私も軽く握り返す。
「すごくドキドキしてしまいます」
「私もだ。このままずっと、君と触れ合っていたい」
「許されるのでしたら私も同じ気持ちです」
人と手を握るだけて、こんなに緊張してドキドキして安心できるなんて初めての体験だった。この時間が永遠に続けばいいのにと願ってならない。
繋がれた手はお互いの温もりを分け合っていて、今の私の心と同じくらいに温かかった。
22.0822
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泡沫の夢