ぼくの運命のひと(アーティ) | ナノ


今朝の朝ごはんは、甘く煮詰めた木の実のジャムで作ったサンドイッチ。指先ですくって一口味見したそのおいしさに、私のお腹はさっきからひっきりなしに鳴いている。出来栄えは完璧。このまま食卓に並べたいところをなんとか留まり、淹れたての紅茶が入った水筒と一緒にバスケットに詰めた。この作業はある意味、私のお仕事。自分の好きで始めたはずなのに、いつの間にか一日に三回、ごはんをアトリエに届けることが毎日の義務になっていた。じゃないと創作活動に没頭しすぎて食事を忘れた私の恋人が飢え死にしてしまうから。
最低限に、なおかつ手は抜かずに身支度を整えて家を出る。はたして彼は今日も散らかった空間の中で夜通し絵を描いているのか、はたまた絵筆を握ったまま死んだように寝ているのか。アトリエを目指す途中、想像したら笑えてしまった。どっちにしたって彼らしいと思った。

「あ おはよう!そろそろ来る頃だと思ってたんだあ」
「お、おはようございます…」

アトリエに着いてみて驚いた。あのアーティさんが私を出迎えてくれたことなんて今まで一度もなかったのに。いつもなら扉をノックしても意識はキャンバスに向いたままで、私の存在すら気付かない彼が、今日はどうしたことか。雨でも降るんだろうか。洗濯物、さっき干してきたばかりなのに。
しかしこんなことは予兆に過ぎなかった。玄関に突っ立ったままの私はアーティさんに催促されてアトリエに一歩踏み込んだ時、さらなる衝撃を受けることとなった。

「アーティさん、まさか、部屋片付けました?」
「びっくりした?えへへ、僕昨日の夜からがんばったんだあ」

途切れ途切れにつぶやいた声が思わず擦れてしまった。片付けが苦手な彼に代わり、アトリエの掃除をするのも私の仕事の一環だ。もちろん今日もそのつもりでここへ足を運んだのだ。けれど使ったままの絵筆やパレット、キャンバス、脱ぎ散らかした服が散乱したいつもの風景はどこへやら。整理の仕方は少し雑だけど、室内はどこも乱れていなかった。これはもう洗濯物どころの話じゃない。いよいよもって槍が降る。むしろ隕石が落ちてきても不思議ではないかもしれない。
私が戸惑いの色を浮かべて振り向いた時、アーティさんは「見せたいものがあるんだ」と笑って、私の手を引いてアトリエの奥へ進んだ。

「これはね、僕がずっと前から描いてた絵なんだあ」
「前ってどのくらい前です?」
「んうん…僕と君が初めて会った時くらい?」
「ええっ!それって結構な超大作じゃないですか」

彼に言われた通り、部屋の真ん中に立たされた私は胸を弾ませながら作品の公開を待っていた。さすがにあのアーティさんが時間をかけた絵なだけあって、白い布に覆い隠されたキャンバスの大きさは今までの作品の比ではない。今にも天井に届いてしまいそうなそれに圧倒されているうちに、アーティさんは嬉々とした様子でキャンバスの布を剥いだ。
芸術肌な彼のことだから、なんだかよくわからない抽象画を自慢げに見せられて感想に困ってしまう、なんて場面を予想していたのだけど、現実はまるで違っていた。キャンバスの中には誰でもない、私がいた。それも頬に赤い絵の具をちりばめて、頬杖をつきながら幸せそうな笑顔をいっぱいに咲かせて。だからこれには思わず拍子抜けた。そして同時に、間近で作品を眺めていてあるものを見つけた私は、ふと言葉を失った。
となりに並んだアーティさんは、いつもの調子でキャンバスを見上げている。

「どうかなあ?僕人物画なんて初めてだったから」
「……アーティさん」
「気に入ってくれたら君にあげようと思ってたんだけどねえ。この大きさじゃあ運び出せないね」
「ねえ、アーティさん」

もう一度名前を呼べば、彼は首を傾げて「なんだい?」と微笑んだ。

「この絵のタイトルってどういう意味ですか?」
「んうん?どういうって聞かれてもなあ…うーん…そのままの意味なんじゃないかな」

かなって何ですか、かなって。ふざけないで答えてくださいよ。求めるような宝石みたいな瞳を見つめても、彼はにこにこ笑ったまま。キャンバスの隅っこにちょんと飾られたプレートが、プレートに並んだお世辞にも上手いとは言えないアーティさんの字が私を翻弄する。自分の都合のいい方向には考えたくないのだけど、それにしてもこのタイトルの言い回しが、まるでずっと私が待ちわびていた殺し文句みたいだから。

「ねえ、名前」

華奢だけど、わたしよりもずっと大きい手のひらが私のそれを包み込んだ。

「僕は片付けができないし、ごはんだっていっつも君に任せっきりで、一人じゃなんにもできない。絵を描くことしかね。でもね、僕は君に出会ってから、僕にしかできないことを見つけたんだ」

アーティさんにしかできないこと。開きかけた唇は、それを問う前に温かい温度に塞がれた。永遠と感じてしまうような、おだやかな沈黙が二人に訪れる。触れ合っていた唇はしばらくして名残惜しむように離れていった。そして涙で頬を濡らす私に向けて、彼はまたあの大好きな笑顔を見せるのだ。

「君を幸せにすること」

「すべてが上手くいくなんて保証はないけど、それでもよければ僕のとなりにいてくれないかい?」胸の中でせき止められていた何かが、じわりと熱を帯びて溢れだしていった。私はアーティさんの腕の中で泣きじゃくりながら頷いた。彼はいつまでもそんな私の髪を優しく撫でて抱きしめてくれていた。
アーティさんの言う通り、きっとこの先に待っているものは幸せばかりじゃないと思う。二人で道を歩んでいれば、時には壁が立ちはだかることだってもちろんあるはずだ。それでも私はその苦しみを乗り越えた先にはいつだって、このキャンバスの中の自分みたいに左手の薬指に指輪を輝かせてあなたと笑い合う日々が待っていると信じていたいのだ。

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テーマ「人外ファンタジー」
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