鼻先に迫る、寝癖のついた髪を指先でいじってみる。手のひらでそっと撫でてみる。こんなささやかな悪戯で彼の寝息が乱れないことは、この事務所に入り浸っていればクラスでワースト5入りの成績を誇る私でも学習するというものだ。 不用心にもロージーくんは事務所の鍵をかけずに出かけてしまったようで、学校の帰りに立ち寄った私を出迎えたのは同じく夢の国へお出かけ真っ最中のムヒョさんだった。今日はナナちゃんもバイトでいないから事務所は落ち着かないくらい静まり返っていて、そして冒頭へ戻るわけである。普段からピーチクパーチクと騒がしい私が大人しくソファーに座っていられるはずがなかった。 「ムヒョさーん」 「…」 「無視ですか」 「…」 「透くん」 床にひざを立てて、揺りかご見たくこぢんまりしたベッドを覗き込む。またマホーリツとかいうのを使って疲れているのか、眠りは相当深い。のをいいことに、いつもならあの分厚い魔法の本で叩かれるようなことを今のうちにやっておこうと思う。手始めに助手であるロージーくんでさえ口にしない彼の名前を呼ぶことにする。 「透くん」 なんだか自分が特別にでも存在になったみたいで束の間の優越感に浸る。窓辺にできた暖かい日だまりが、そこらを舞うほこりを輝かせる穏やかな午後。ムヒョさんは私が毎日ここに通っている理由を、その原動力が何かをご存じだろうか。…知らないだろうなあ。ムヒョさんだもんね。 彼は依頼人の入りがまばらな事務所ではだいたい寝てるかジャビンを読んでるかの二択でロージーくんに世話を焼いてもらってばかりだけど、いざという時はこの小さな体で守ってくれる。私よりちび助な癖して生意気で、ぶっきらぼうだし冷たく当たる時もあるけど、マントの下にとても温かい心を隠し持っているのちゃんと知ってるよ。 まわりを見渡して事務所に二人きりなのを確認する。ロージーくんはまだ帰ってこない。照れ臭いから今言うね、私はそんなムヒョさんのこと全部ひっくるめて、 「大好き」 耳元に落とした、愛と呼ぶには拙くて幼い言葉。口を突いて出たそれのあまりの恥ずかしさにソファーに飛び込んで身悶えていると、ちょうど両手に買い物袋を携えたロージーくんが帰ってきた。 「ただいまー!あれっ、名前ちゃん来てたんだ」 「お邪魔してまーす。えへへ」 「なんか顔赤いけど大丈夫?風邪でも引いた?」 「んーん、大丈夫!えへ」 お値打ち品でも手に入ったのか、ご機嫌なのがその足取りからして伺える。「今紅茶淹れるから待っててね」ロージーくんが事務所に備え付けられた台所に消えるのを見送ってから、ソファーから移動して好奇心に誘われるように彼のデスクに座ってみた。今ならなんでも思いのままな私はすっかり六氷透気分である。 「マホーリツ第77条『睡眠妨害』の罪により、『プチトマト責め』の刑に処す!!」 「いい加減黙らんのなら本当にプチトマト責めにしてやるぞ」 「をっ!?」 思わず起立。彼の愛読しているジャビンを片手に成り切る私の姿は、ベッドの縁から覗くその鋭い目にばっちり見られていたようだ。やけに圧力があるというか、突き刺さるような痛い視線に怯む。どうかプチトマトだけは勘弁です。 「お お目覚めでしたか」 「まあ、あんだけ耳元で騒がれたら当たり前だわナ」 「…もしかして全部丸聞こえだった?」 のん気に欠伸なんかしながら寝返ったムヒョさんは「ヒッヒ」とだけ返して私に背を向けた。くそう、狸寝入りしてたんだな。「飽きもしねーでよく来るナ暇人が」「えへへ」「褒めてねえぞ」でもやっぱり、そういうとこも好き。意地悪も盲目的な恋する瞳にかかればご愛嬌である。 台所からふわふわと紅茶の香りが漂ってきて、私はおみやげがあったのを思い出し再びベッドに身を乗り出した。 「とーおーるくんっ」 「なんだ」 「ここ来る前にケーキ買ってきたんだけど、透くんも食べる?」 「…食べてやらんでもない」 素っ気ないのは単に寝起きが悪いせいか、それとも。上を向いた耳を摘んで遊んでいれば、頭まですっぽり布団を被ってしまった彼に弾んだ笑い声が込み上げる。ロージーくん、私やっぱり病気にかかってるね。もっとも、治す薬も見込みもないみたいだけど。 |