瞬きをあげる(マルコ・マセラッティ) | ナノ


頭の上で音をたてた雨粒が、赤色の緩やかな輪郭をなぞりながらすべり落ちた。開いた時のシルエットに一目惚れして迷わず買った傘の柄をくるくる回しながら、私は雨降りのイタリアの街を歩く。出掛けた理由は特にないけれど、不思議なことにこの時の私はとても気分がよかった。足を運ぶリズムに合わせて鼻歌を歌えたくらいに。なんだか、このかわいらしい赤い傘が私のもとに何かを連れてきてくれるように感じたのだ。

目の前の道をなんとなく歩く私の足は、ついに街の大通りへとさしかかった。おしゃれなカフェから洋服屋さんまで、なんでも揃ったこの場所は私のお気に入り。でも、雨のせいもあってか人通りは少なかった。黒い傘をさしてゆっくり歩くおじいさんと、店先で雨宿りをしている男の子。この風景の中にいるのはその二人だけ。

買って欲しそうに飾られたかわいい靴を濡れたショーウィンドー越しに眺めながら、のんびりと石畳の道を進む。あいかわらず降り続ける雨の中、ふと視界の端に映った何かが私をすごい勢いで追い越していった。さっきの、雨宿りをしていた男の子だ。

ワイン色の巻き毛がびしょ濡れになってへたれこむと思いきや、湿気を帯びた髪はさらにくるくると膨らんでいた。少しだけ見えた手元には雨から守るように抱えられた紙袋、その中には色鮮やかな野菜が顔を出している。
降り注ぐ雨のせいでどんどん濃く染まってゆくそれを見かねた私は、気がつくと遠ざかるうしろ姿に声をかけていた。

「ねぇあなた、私の傘に入って!」

雨の音に消えないように、彼に届くようにそっと叫ぶ。振り返ってくれた男の子に手招きをしてみせると、彼はぱっと笑顔を咲かせて私の傘の中へと駆けこんだ。赤い世界の下で、きれいな緑色の瞳が輝いている。

「いやぁ 助かったよ。ありがとう!」
「ううん、気にしないで。それより紙袋は大丈夫?」
「大したことないよ。君のおかげでそんなに濡れなかった」

まだ毛先に雨粒を残したまま、その口元を曲線で型取る彼。私はその笑顔に、なぜだか惹きつけられるようななにかを感じた。無意識のうちにきゅっと傘の柄を握る。雨音が、一瞬だけ遠ざかって聞こえた。

男の子の家まで送る約束をした私は、彼とたくさん話をした。
まず、彼の話。名前はマルコ・マセラッティくんと言うらしい。ほかにもサッカーが大好きなこととか、朝の天気予報を見忘れてしまうくらいにパスタ作りのことで頭がいっぱいなこととか。ずっとお店で小麦粉の値段をくらべていたから、外で雨が降っていたことに気がつかなかったらしい。そんなかわいいところもある男の子だ。

そして、私の話。正直、こんなにも自分のことについて人に語ったのは初めてだった。名前はもちろん、大好きな食べ物のことや家族のこと。お気に入りのこの赤い傘のこと。そして、実は誕生日にもらったこのワンピースがなんとなく好きになれないことも、全部。マルコくんは笑って受けとめた。
優しい雨は、まだやむ兆しを見せない。


「あっ あれだよ、俺の家」

話題に咲かせた花も、いよいよ終わりを告げる。大通りを離れた道の先、赤いレンガ造りの家が彼によって指を差された。「送ってくれてありがとう」荷物を抱え直したマルコくんが微笑む。でも、私は素直に笑い返すことができなかった。自分が彼の隣にいることを喜ぶ心臓の裏側で、わがままな気持ちが蠢いている。
マルコくんと、もっと一緒にいたい。話していたい…でも、こんな自分勝手な私は嫌われてしまうだろうか。そう考えたら、さっきまで傘の上の雨粒みたいに弾んでいた気分はお腹の底へと沈んでいってしまった。

マルコくんに出会ってから、秘密ができた。傘の下で並んだ私たち…この短すぎる距離に、胸が甘く高鳴っていること。それともう一つ。このワンピースの色が彼の瞳のグリーンに似ていて、少しだけ好きになれたこと。こんな幸せな気持ち、まるで魔法にかけられたみたいだった。そうだ、私はいつの間にか、苦しくなるほど、彼のことが。

けれど、そんな時間も残りわずか。玄関まであと数歩分。寄せていた肩が少し、離れた。

「ねぇ、今度俺の家にパスタを食べにきてよ」
「えっ パ、パスタ?」
「君にお礼がしたいんだ。ほら、新しいローリエの葉も買ったしさ」

その目が私を写したかと思えば、ごそごそと紙袋を探って小さな箱を取り出したマルコくん。料理には疎いから分からないけれど、きっと調味料みたいなものなんだろう。
無意識に頷いて、そのお誘いの意味を知ったのはもう少しあとだった。マルコくんには、また会える。これだけで終わりじゃないことを理解した私だけを残して、彼は赤い傘の下を出ていった。今度こそ、お別れだ。

「あっ それと」

家の中へ姿を消しかけたと思ったマルコくんが、ドアの隙間から顔をのぞかせた。もし見間違いでなければ、傘の色が彼の頬に染みついてしまったみたいにほんのり赤くなっている。

「俺はそのワンピース、よく似合ってると思うよ」

「チャオ!」ひらひらと手を振って、マルコくんを受け入れた玄関は静かになった。呆然と立ち尽くした私を残して、また雨音だけが私を包み始める。

そうだ。次にマルコくんと会う時は彼の瞳の色に似た、たった今大好きになったこのワンピースを着て会いにゆこう。私はまた、お気に入りの赤い傘を揺らしながら石畳の小道を歩く。
足元で跳ねた水たまりが、うっすらと明るんできた空に輝いた。

「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -