狼まであと何秒?



それはそれは不思議な光景だった。いつも兵長について回っている人間が、あからさまにそばに寄ろうとせず、逆に距離を無駄にとっているという、珍妙な光景。


兵長自身、なぜそういうことになっているのか、自分の中で消化しきれていない様子で、ちらちらと何度か様子をうかがっているようだ。


「ペトラさん…、これって……」

「さわらぬ神に祟りなしよ、エレン」

「は、はあ……」


確かに兵長と彼女に関わって今までどんな目にあってきたかは、思い出したくもないのだけれど、放置しておけば、余計に事態が悪化していきそうなのは目に見えていた。

かといって、自分が口を出せば、兵長が溜めに溜めている苛立ちのはけ口に充てられてしまう。

どうしたものか、と頭を悩ませていれば、ついに黙りを決め込んでいた兵長が動いた。


「オイ、姫」

「は、はい」

「何かあるのなら、口で言え。さっきからうざってぇんだよ」


構われれば構われるで、鬱陶しいだの邪魔だのとあしらうくせに、距離を置かれて放置されれば何故構ってこないのだ、と不満を募らせる兵長は、はたから見ればなんて勝手な人間なのかと思われるのだろう。


だが、この二人の関係はそんな口にして説明できるほど容易い構造はしていないのだった。


「へ、兵長、近いんですけど……」

「ああ?」

「は、離れてください」

「……」


ぶち、と何かが切れる音が聞こえた気がした。俯いている姫さんにはわからないかもしれないが、傍で成り行きを見守っていた俺たちリヴァイ班には、否応なく伝わってきた。

兵長の堪忍袋の緒が切れた……。


隣でがた、と椅子を引く音が聞こえたかと思えば、次々に席から立ち上がる先輩方を呆然と見上げる。

そそくさと逃げるように退散していく先輩方の後ろ姿は、とてもあの巨人に向かっていく勇敢なそれとは比べ物にならないほど頼りなく見えた。

え、と思った時には既に状況から離脱することはかなわなかった。


「朝っぱらから、やけに俺から距離を置きたがるのは何だ」

「だって、兵長、朝から襲って――」

「煽ったのはお前だ」

「私、嫌だって……!」

「…………」


まあ、薄々というか、気づいてはいたけれども…。この二人、性格真反対なわりに親しげで、どこか密めいた空気を醸していたから、そういう関係なのだと思っていはいたけれど…。

生々しい会話だな……。


壁にじりじり追いつめられて、今では壁を背中に兵長に退路を断たれている姫さんは、目に涙をためていた。

なんだか彼女が哀れになってきたが、ここで俺が手を差し伸べれば、兵長に睨み殺されかねない。



「次拒んだら、今夜は寝かせねぇ」

「え、やっやだっ……ごめんなさい…っ」

「……(あ、泣いちゃった…」

「じゃあ、拒むな」

「!……っ」

「………余程、今日は眠りたくねえようだな」


兵長が首を傾けた瞬間、ぐ、と両手で兵長の口元を覆ってしまった姫さんは、ぼろぼろ涙をこぼしながら兵長を見上げていた。これは、なんだろうか。俺がいないほうがいいのか。


恐らく兵長は俺がいようがいまいが、このまま平気で姫さんを組み敷くだろうが、姫さんにとっては俺に見られることに羞恥心が働いて、拒んでしまっているのでは、などと頭を巡ることばたち。

だが、それは直ぐに終局することになる。


「こ、口内炎……い、いたっくって…っ」

「!――…」

「へ、兵長。汚いのやだっていっつも言うし、口の中、切れちゃってるし……っく、う、うぇっ、ひっく…んっく」


とうとう泣き出した姫さんが口にした言葉にぴたり、と動きを止める兵長。頭の中の問いに答えが出た俺は、なるほど…と頷くしかなかった。そして、早めにこの場を退散しないと、自分の身が危ぶまれてきた。


「姫よ――」

「んっく、は、はいっ」

「消毒してやるから、口開けろ」

「え、あ……っん!」


消毒にはならない。
タイミングを逃してまたもや退散できなかった俺は、ただ空気のようにその場にいるしかなかった。兵長の言葉と行動を頭の中で整理してみるが、医療の知識のない俺でもそれだけは言うことが出来た。


「い、いひゃい……っ」

「フッ、……そんな面して誘ってんのか」

「ち、違いますっ!てゆーか、ばい菌移るから……っ」

「構わん。……俺を避ける理由にはならねぇ」


兵長のこんなに優しい声は初めて聞いた。兵長が姫さんを凄く柔らかい表情で見つめている事など常日頃から見られるのだけれど、それは一瞬だけ。こんなにも長い間、それを見られることなど、俺でなくてもそうそうないことだ。


兵長がどれだけ姫さんを大事に想っているのか、惚れているのかが言葉ひとつ、行動ひとつからひしひしと伝わってくるようだ。


兵長を前に顔を赤くして、恥ずかしそうにする姫さんは、本当に可愛らしくて、兵長が好きでからかって、この表情を引き出していることに彼女自身はおそらく気が付いてはいないのだろう。

でも、二人を見てると、こっちまで幸せでほっこりした気持ちになる。


すっかり兵長のペースにもっていかれた姫さんがこの後どうなったかは、俺も知らない。何かが始まる前に兵長によって強制退場させられたからだ。


後日、ハンジ分隊長から口内炎の薬をもらったと喜んでいた姫さんからそれを取りあげたリヴァイ兵長を目にして、再び俺たちリヴァイ班が部屋から退席したのは言うまでもない。


痛いの痛いのとんでいけ


13.10.17
編集20.01.10