Free(七瀬遙)『涙のキミの傍で』
俺たちは中学生になった。まつりと真琴と一緒の中学に入って、変わらず過ごすはずだった。
でも、そこに足りない何かを俺たちは嫌というほど思い知るんだ。
凛がいなくなって、もうすぐ一年になろうとしている。肌寒くなってきていた秋の暮れ。
まつりは短かった髪が肩について垂れるほど伸びていた。どこか顔立ちが女びて見えてきたのは、髪が伸びたせいだ、きっと。
でも、そこにあるはずの笑顔は、ここずっと失われたままだ。
――お前が、笑わなくなったのは凛がいなくなってからってことに気が付いているか?
「まつり」
「……」
「まつり!」
「あ、な、なに。ハル……」
この頃、ぼーっと空を眺めることが多くなった。
それが遠くにいる凛を想っている時間だということは、誰に言われなくても俺が一番よく知っていた。
だから、お前がぼーっっとしているのを見るのは嫌いだ。
凛の事しか考えていないお前を見ているのは、嫌だ。
「今日、委員会だろ。遅いなら送るから」
「大丈夫だよ。ハル、部活で大変だし」
「……送る」
俺を気遣いながらも、考えてるのはきっと凛の事。
どうしてお前は、アイツの事ばっかり考えてる?
最後の日だって、気持ち伝えられないまま別れて泣いていたくせに。
お前はまだ――。
「じゃあ、お言葉に甘えて送ってもらおうかな」
「わかった」
「じゃあ、私委員会終わったら、部室のとこまで行くね」
「ああ」
少しでもお前の傍に長くいれば、何か変わると思ってた。凛のことを忘れてほしかったわけじゃない。凛がいなくなって、寂しいと感じているのは俺も同じだ。友達が遠くへ行ってしまう気持ちは、俺だって分かる。
でも、俺とまつりの気持ちは一緒じゃない。
まつりは、凛を友達としてではなくて、違う意味で想っているのだから。
「ハル、大丈夫?」
「別に」
俺がまつりを気遣う度、傷ついた顔をしているのだろうか。心配して声をかけてくるのはいつだって真琴だった。
でも、その優しさが余計に俺の傷をえぐるんだ。
なあ、凛――。
お前、中途半端な気持ち残してまつり置いていって、今、どうしてる?
親父さんの夢の為に頑張ってるか?
凛がオーストラリアに発ってからぷつり、と途絶えた連絡は今も来ることはない。たぶん、俺にだけではなく、まつりにも、真琴にも、誰にも連絡を取っていないんだろう。
凛の事だから、一度こうと決めたらそれに向かってがむしゃらに頑張るんだ。
そんな凛をどこかで羨ましいと思っていたし、素直に凄いと思っていた。俺には、できないことだと思っていたから。
ただ、水を感じられればいい。
水を感じていれば、何もかも忘れていられた。
あの日に戻れる気がしたんだ。
だけど、あの日、凛が見せてくれた景色だけは、どうしても思い出すことが出来なかった。
・・・・・
真琴は寄るところがあると、先に行ってしまいまつりと久しぶりに二人で帰路についた。会話もなく、ただ帰るだけ。そんな時間でも、俺はよかったんだ。傍にまつりがいてくれるだけで、それだけでよかった――。
「ねえ、ハル。公園、寄ってかない?」
「別にいいけど……」
だけど、きっとお前は違うんだ。
小学生の頃なら、ここには凛がいて、渚がいて、真琴がいた。何より、お前は本当に楽しそうに笑ってた。
『よっし、じゃあ、誰が一番早いか競争な!』
『わ、わたし遅いもん!』
『まつりは俺が引っ張ってってやるよ』
『うんっ!』
いつだって、俺のポジションだったそこを、凛は簡単に奪っていった。何の遠慮もなくまつりの手を取って、俺の前を走っていた。
悔しかった。
でも、凛の事もやっぱり、俺は好きだったんだ。
「ハル、最近疲れた顔してる。ちゃんと眠れてる?」
ブランコに腰かけて、ゆらゆらと揺れながら、そんな風に切り出すまつりをじっと見下ろす。疲れた顔をしているのは、俺よりも、お前の方なんじゃないのか。
「それは、お前の方だろ」
「え?」
「……凛」
隣のブランコに腰かけて、そっとその名を口にすれば、隣でまつりが肩をびくつかせたのを見逃さなかった。真琴も俺も、ここずっとその名を口にしなかったのは、まつりがまだ、不安定だったからだ。
急にいなくなった凛をずっと忘れられないで、毎夜毎夜、泣き通していることを知っていたからだ。
「凛がいなくなって、もうすぐ一年だ」
「……うん」
「お前は、昔から直ぐに自分の中にひきこもる」
「そんなこと、ない」
「凛がいないと、全部だめになったのか?」
「別に、水泳をやめたのに、凛は関係ない」
そう――…。
まつりは、凛がいなくなってから、水泳をやめた。正確に言うならば、泳げなくなったんだ。それが、心理的作用が引き起こした症状なんだとどこかで思っているのは、きっと俺だけじゃない。
泳げなくなったことを知っているのは、俺と真琴の二人だけだ。
「泳げなくなったのには、関係あるんじゃないのか?」
「!――」
あんなに水が好きで、海が大好きで、そんなお前が、夏になっても近寄りもしなくなったんだ。
「凛はもういない」
「わかってる!そんなこと、わかってるよ!」
わかってない――。
わかってないから、お前は水が怖いんだ。凛を思い出すからとか、そんな理由じゃなくて、凛を失った今、また何か失うって恐怖に負けてるんだ。
お前から凛を奪ったのは、水じゃない。水泳じゃない。
「だったら、泳がない理由を凛のせいにするな」
「してないっ!何で、ハルにそんなこと言われなきゃいけないの!?私、ハルに迷惑かけてないもん!泳がないんじゃなくて、本当に泳げないのよ!」
目じりに溜まった涙が勢いよく零れ落ちる。大粒のそれは、とどまることなく溢れ続け、今まで溜めこんでいたらしいものが、その場で吐き出されるのを俺はただじっと待った。
まつりが俺にぶつけた言葉ひとつひとつに傷つかなかったわけじゃない。
でも、それでも、お前が溜めこんでたもの吐き出せる場所が俺でよかったと思えるから。
「わた、私だって……っ。また、ハルと……泳ぎたいのにっ」
最後には、お前はそうやって俺に手を伸ばすから。その手を突っぱねて、冷たい言葉で突き放すなんてことは、できなかった。
「でも、できないっ……どうやって、呼吸するのか、……どうやって、……水と向き合ってたのか、わかんな――っ!」
「そんなこといくらでも俺が教えてやる」
「!――…っ」
「俺は凛にはなれないけど、お前の傍にいることはできる」
「ハル――っ」
ブランコから立ち上がって、泣きじゃくるまつりを包み込んでやれば、腕の中にすっぽりとおさまる小さな温もりをそっと抱きしめた。
「また一から始めればいい」
――もう一人で泣いたりするな。
その言葉が引き金となったのか、大声をあげて泣いたまつりは、この日を境に少しずつ自分を取り戻していった。
なあ、凛――。
お前が戻ってくるまで、勝負はお預けだけど、帰ってきたら、今度こそまつりは絶対譲らないから。
(涙のキミの傍で)
じゃあ、取り敢えず、入れ
え、えっえ、ちょ!
ハル!急には無理だって!
大丈夫だ。溺れても俺がいる
そういう問題じゃないから!