名前がずっと俺に隠し続けていたことが朧げに見えてきた。だけど、名前。君がこの道を選んでしまったのは、どうしてだい。
君が今こうして死の一歩手前まで追いつめられてしまったのは、誰のせいかな。
「佐倉、ちょっと待て」
「こういうのは、一気のほうが後で辛くない」
俺の頭がぐちゃぐちゃになっているところで、話はどんどん進んでいく。名前よりも仁王がどこか冷静でいられるのはおそらく、これから先あの子が名前に何を告げようとしているのかを知ってしまっているからだろう。
そしてそれはきっと、名前には黙っておきたいことなんだ。
「名前、あたしらは、もう、死んじまってるんだ」
名前。
俺は、もしかしたら、とんでもない選択を君にさせてしまったのかい。
君は、俺の病気が治ると信じて疑わなかったね。手術が成功して喜んでくれたけど、君の瞳はどこか静かだった。
本当は、知っていたんじゃないのかい。
俺の病気が必ず治ること――。
「ねえ、杏子。私、足に感覚がないの。どうして?」
「!――…」
足に感覚がない――。
俺がそうなるかもしれなかった未来を、君に全て押し付けてしまったんだろうか。君は、大きすぎる代価を支払って、俺の隣で笑っていたのか。
「足が、動かない……っ。何も、感じないよっ!」
名前の泣き叫ぶ声に胸が押し潰れそうだ。俺は、君に取り返しのつかないことをさせた。もう、何をどう償っていけばいいのかも分からない。
君に手を伸ばす資格は俺にあるかな。
でも、俺は、君がそうしたように、君を切り捨てて生きていけるほど、強くもなければ、薄情な人生を歩んできたわけでもない。
「幸村……?」
「名前」
立ち上がった俺に動揺を見せたのは、黙って様子を見守っていた仁王だった。その声に反応して、名前を抱きしめていた女の子がそっと身体を離す。
「精ちゃん……っ」
「ここは冷えるから、保健室へ行こう」
「あ……っ」
すっと名前を抱き上げる。その軽さに驚いた。久しぶりに君の身体を抱き上げたけれど、随分と痩せたんじゃないか。
「精ちゃん、わた、しっ」
「今は何も言わなくていい。怖かったね。もう、大丈夫だから」
「っ!……う、うわゎあああっ」
俺にはきっと何も言ってあげることはできない。でも今はとにかく移動したほうがいい。捜しに出回っているテニス部員たちにも報告しないと心配しているだろう。
あのマネージャーたちは取り敢えず柳に任せてきたから、うまくとりなしてくれるだろう。
小さく細くなってしまった名前をしっかりと抱いて、保健室までの道をただ進む。周りの好奇の目など気にする余裕もなければ、視界に映り込むこともなかった。
ただ、俺の後ろを仁王と佐倉さんが黙ってついてきてることを見ると、二人も俺の意見には賛成だったようだ。
だってそううだろう。
あそこはあまりにも――。
名前を保健室に寝かせて、少し休ませてほしいと保健医に頼んだ俺たちは、そのまま午後の授業へとそれぞれ戻り、話は放課後の部活ミーティングへと持ち込まれることになった。
名前以外のマネージャーは自ら退部することを決めたらしく、幸村はただ黙ってその退部届を受け取っとった。
俺は少し甘かったかもしれん。
女の心は移ろいやすい。そうは言っても、それは名前に当てはまるもんではないだろう。アイツはただ真っ直ぐに幸村を想っとった。
傍で一番アイツを見とった俺が言うんじゃから間違いない。
ただ、想いが強ければ強いだけ、踏み外してしまえば、誰にもそれを覆すことはできん深みにまで落ちることになる。
あの時、俺も、佐倉でさえも何も言えずに名前を囲っていた。動揺して泣き叫ぶ名前を幸村は一瞬で、落ち着かせた。二人の間にはまだ確かに絆が残っとる。
俺に踏み入る隙なんか元々ないんじゃ。
そんなこと、とっくの昔に分かってたはずだったが、アイツの秘密を自分だけが知って、自分だけが、アイツの苦しみを分かって、何を勘違いしたんかのぅ。
「佐倉、さんだよね?全て、教えてくれないかな。あの子の身に起きたこと」
「アンタたちは、コイツと違って、見てないからね。何とも説明しにくいんだけど」
テニス部の緊急ミーティングには、佐倉もしぶしぶ参加していた。考え込む俺の横で、指さされても俺にだって詳しい説明なんかできんぜよ。
「仁王が見たっていうのは、何なんだい?」
「仁王先輩、名前先輩見つけて帰って来た時、ジャージ赤黒かったッスよね?あれ、血なんじゃないんすか?」
「……あれは、俺のじゃない」
見た。俺が見たのは、ただ名前が血だらけになって、突っ走っていく姿じゃったから。向かっていくもんなんか――。
あれを血だと言い当てるってことは、赤也は鼻がきくんかのぅ。
「誰のっすか?」
「――名前のじゃ」
まさか、名前先輩の死んだ友達の、と言いかけた誰かの声を非情にも遮った。後から聞いた話じゃけど、癒しの祈りで魔法少女になったアイツの治癒力は他の上を行く。じゃから、皆のとこに戻った時には、大分傷は小さくなっていた。
驚くのも無理はない。
シンと静まる部屋に佐倉の小さな溜息がやけに大きく耳に届いた。
「おいおい、そんなんじゃ、これからの話なんかまともに聞けやしないよ」
「まあ、無理もないぜよ。俺も、動けんかったんじゃから」
「巴マミの最期を見たんだっけ?」
「いや、正確には、もうそこには何もなかった」
「喰われた後か」
「……まあ、そう言うとったから、そうなんじゃろ」
こんな風に普通に会話できてしまうほど、俺も平気なわけじゃない。佐倉なんかと比べ物にならんほど、知識は不足しとるし、経験なんか塵ほどもない。
ただ、見てただけ。
いつも名前の後ろで、ただ死と隣り合わせのそこへ駆けだすアイツの後ろ姿を見てただけだ。
「や、待ってくれよ!全然意味わかんねぇんだけど!先輩たち何で、そんな黙ってられるんすか!」
「俺にだってわかんねぇよ。ただ、俺が見せたビックリ箱って。その喰った化けモンに似てたってことなのか?」
「ああ。そっくりじゃった」
悲痛な面持ちで固まるブンちゃんは、手で頭を抱えるように項垂れる。自分のしてしまったことへの後悔は、あの時よりもずっと増幅してしまっただろう。
「最初に言っとくけど、アンタたちが手を伸ばせる世界にあたしも名前も存在してない。もう、何も出来ない」
「どういう意味だ。俺たちの目の前にいるお前たちは、じゃあ、何だって言う?」
「コイツが見たのは、人間喰って力を蓄えた魔女だ。それを狩るのがあたしら魔法少女。あんたちは、何だよ。ただの人間だろ」
ただの人間――。
その言葉が今はとても耳障りだった。
俺たちには手を伸ばしても届かない世界に名前はいる。手を差し伸べることなんて許されない、見る事さえ叶わないはずの世界にアイツは一人で立ってる。
いきなり魔女だ、魔法少女だ、言われたって、何のことかなんて直ぐに理解なんかできんじゃろうけど。これだけは今回のことにも関わるから、話さなくちゃならん。
「名前が今回意識を手放したのは、……いや、正確には、死んでたのは、あのマネージャー達が、名前から指輪を取り上げたからじゃ」
「これと同じもんだよ。これが身体からある程度離れれば、あたしたちは動けなくなるし、これが割れでもすれば、それで終わりだ」
終わり――。
それは、永遠に時を止めることと同意だ。
それだけは、絶対にさせはしない。
たとえ、住む世界が違ったとして、助けることはかなわなくても、それでも俺は、アイツを一人で、死なせることだけはできん。
「コイツの覚悟は一緒にいて分かってる。名前が血だらけになっても、コイツは平気だろうからな」
「そんなわけない!」
「仁王君は、そこまで薄情な人間ではありませんよ!」
「嘘はつくが、人間としての常識は身に着けている男だ」
「そういうことじゃないんだよ。わかんない奴らだな」
そうだ。
そういうことじゃない。
俺に覚悟があると佐倉は言うが、それはまだ嘘で固めた確かなものじゃない。
俺には、まだアイツが必死に闘う姿を受け容れることへの拒絶があるからな。
幸村の為――。
それを、俺はどうしても認めたくないんかもしれんのぅ。
「佐倉さん。俺たちにはどういう覚悟を求めるのかな」
「――アンタ、名前の為に一生を捨てて死と隣り合わせの戦場に身をおけるかい?」
「――……」
それに頷けば、名前が今までしてきたことは全て水の泡じゃ、幸村。いくら、それが正しい答えだったとしても、お前だけは、答えちゃいかん。
「名前が望めばそうするよ。でも、あの子は望まないんだ。俺にはもう、テニスであの子に応えるしかやってあげられることがない」
「――そう、じゃなきゃ、今ぶん殴ってたよ」
名前の祈りを無駄になんてさせられない。
佐倉もそう思ってたようだった。
ああ、やっぱり俺はこいつには敵わん。