二週間とは早いもので、あっという間に、松岡先生の教育実習期間は終わりを迎えようとしていた。 ま、その前に私には追試という名の最大の試練が待ちかまえていたわけですが。 「制限時間は、30分だ。長文読解だけのテストだ。問題ねぇな」 「うん」 「じゃあ、はじめっぞ」 「う、ん?」 「……なんだよ」 「ちょっとタイム!」 「こら、てめっ!長文読んでから辞書引いてんじゃねぇ!カンニングだろそれ!」 「だって、この単語習ってない!」 「あ?……まあ、これだけだからな(この一瞬で見つけたのか……」 「よし、おっけ」 辞書をしまって、先生の合図を待てば、はじめ、との声がかかったと同時に長文において重要な単語、登場人物の名前、関係代名詞、諸々読むうえで必要になる単語に線を引っ張って、丁寧に読み解いていく。 ひとまず、話の中身が理解できれば、答えられないほど難しい問題はない筈だ。 問いと照らしながら長文を読み解いていく。すらすら、とまではいかなかったけれど、そこそこ順調にこなしていく。 わからないって、ことはない。 難しいところもあるけれど、このくらいのひねりで私は騙されません。 「残り、5分」 「……」 最終確認を残して残り5分。 もう一度、問いに対する答えとを確認しながら、テストを見返す。 うん、ばっちり。 「止め」 「ふぃー」 「ちょっと簡単すぎたか」 私の席の前に椅子を引っ張ってきて椅子の背を抱えるように座った先生の手には私の答案用紙。さっと目を通して、そのまま私へと返されたそれは、私の回答以外何も記されていない。 「全問正解」 「おおっ!」 「まあ、よく頑張ったな」 「!……」 ぽん。 頭に乗っかった先生の手がくしゃくしゃっと私の髪を撫でる。その優しい手の感触に心がぽかぽかとあったまってきて、とくん、と心臓が優しく脈打って。 「じゃあ、ご褒美くれる?」 「ん」 「え、なにこれ」 「観覧チケット」 「は?」 「俺の泳ぎ見せてやるよ」 ご褒美。 先生の手から受け取ったチケットをぎゅっと胸の前で抱きしめる。 私にとったら最高のご褒美かもしれない。 ねえ、先生。 先生の引いた境界線、私乗り越えちゃったかもしれない。 *** クラスの皆に託された色紙と小さな花束をもって、指定された会場へと足を運べば、大勢の人の中に見知った顔を見つけた。 その人もこちらに気づいたのか、目が合うと手招きで私を呼んでいる。ん? のこのこつられるようにそちらに足を運べば、手招きしていた金髪美少年は、にっこり笑うと、私の両手を握ってぶんぶんふった。 「君が名前ちゃんだね。凛ちゃんから話は聞いてるよ」 「え?」 「凛さんの大事な招待客ですからね。丁重に迎えないと」 「客……」 「二人とも。困ってるじゃないか。ごめんね。凛から、君のこと聞いてて、頼まれたんだ。一緒にこっちで観覧しよう」 「あ、ありがとうございます……」 爽やかイケメンのお兄さんは、たぶん真琴さんで、金髪美少年は渚さん。眼鏡の似合うスラッとしたスポーツ系のお兄さんは、怜さん。 だと思う。居酒屋で以来だから、ちょっとうろ覚えだけど、先生に聞いた話と組み合わせて何とか理解できた。 真琴さんの隣に腰をおろして、ふと一人足りない気がしてきょろきょろと辺りを見回すが、どこにも姿はなかった。 「ハルなら、凛と一緒に今から出て来るよ」 「!あ、そうなんですね……」 よくわかったな。エスパーか。 「それで、その大荷物は全部凛に?」 「あ、はい。クラスの皆に頼まれて、代表です」 「あ、そっか。凛、教育実習終わったんだね」 真琴さんに頷いて返す。 渚さんと怜さんは、別の話で盛り上がっておられるので、こっちを気にしている様子もない。 「凛の授業どうだった?」 「楽しかったです。分かりやすかったし、本場の英語を学べて、とっても有意義でした」 「補習もそんな感じ?」 「な、何で補習のこと……」 「あ、咎めるつもりで言ったんじゃないんだ。凛、凄く真剣に問題作ってたから、それどうしたのって、聞いたら教えてくれて」 へえ。 先生、結構マジで私と向き合っててくれてたんだな。 てゆーか、テキスト引っ張ればいいのに、いちいち問題作っててくれたんだ。手間もかかって大変だっただろうに。 忙しい合間に、私のこと……。 「凛が女の子の為に頑張ってるのって初めて見たよ」 「わ、私は、ただの生徒です」 「そう?まあ、凛がどう思ってるかは、今日分かるんじゃないかな」 「え?」 真琴さんは優しく笑うだけで、それ以上は何も教えてくれなかった。ざわざわ騒がしい会場が、間もなく開幕するとアナウンスが流れたことで緊迫したものへと変わっていく。 透き通る水。 なみなみ揺れるプール。 沢山の注目を浴びる中、あんなところで泳げたら、とっても気持ちがいいだろうな。 「あ、出てきたよ」 「!……」 司会者が読み上げる選手の名前に続いて入場してくる中に見つけた。学校で見るのとは全く違うそのいでたちに目が離せない。 引き締まった筋肉に、ではなく、彼が醸し出す空気に、オーラに圧倒されるものを感じて、ぎゅっと胸の前で両手をにぎりしめた。 スタート台にあがり、構える姿。全て初めて見るその光景に息をのむ。懐かしさとか、自分が今立つことが出来なくなったその場所に届かない想いだとか、たくさんの感情が入り混じって、よくわからない気持ちがこみ上げてくる。 でも、目はしっかりと松岡先生を捉えていた。 開始の合図がなる。刹那、綺麗なフォームで水に飛び込んだ先生が水の中で一際輝いて見えた。 水をかくしなやかな腕の動きも、水を蹴る力強いバネも。思った通り、ううん、それ以上に、とっても綺麗だった。 勝負は一瞬。 電光掲示板に表示された大会新記録のタイムと、松岡凛という名前。 ガッツポーズをして喜ぶ先生の笑顔はとっても輝いているのに、何だか視界がぼやけて綺麗に見えない。 「名前ちゃん……」 「あ、れ……。やだ、私、泣くつもりなんて……っ」 ぽろぽろ零れて止まらないそれは、滴となって頬を伝い落ち、折角お洒落してきた服にしみを作っていく。 ああ、こんなはずじゃなかった。 悔しいわけじゃない。憎いわけじゃない。 ただ純粋に、感動しただけなのに。 「名前っ!!」 「!――…っ」 「お前の夢は、俺が絶対叶えてやる!」 「り、凛……せんせっ」 追い打ちをかけないでほしい。 大観衆の注目を浴びながら、涙を流す私と先生におくられたのは、優しくて温かい拍手の大喝采だった。 *** 「はい、これ。クラスの皆から」 「おう」 「おめでとう、先生」 「!ああ、サンキュー」 色紙と花束を手渡して、泣きはらした目で満面の笑みと共にお祝いの言葉をおくる。これで先生は、本当に手の届かない人になってしまう。 教師と生徒でなくなっても、私はこの人には手が届かない。 「なあ」 「なに?」 「お前の夢をかなえてやる代わりに、お前には俺の願いを聞く義務があるよな」 「なんで」 「なんでじゃねぇよ」 「義務も何も、先生が勝手に同情してしょいこんだんでしょ」 可愛くない。 何でこんな時に、最期かもしれない時に、素直になれないんだろう。 「俺がお前の夢を叶えるっつったのは、同情からじゃねぇ」 「じゃあ、可愛い教え子のお願いだったからか」 「そもそも自分で可愛いとかいうやつは、可愛くねぇだろ」 「あ、女の子に対してそんなこと言うなんて、ひどーい」 同情じゃないなら何。 同情でもないその約束は、一体何を意味してるの。本当に期待ばっか膨らませるの得意なんだから。 「惚れた女の夢を叶えてやりてぇのは、当たり前だろ」 「……先生、自分が何言ってるか分かってる?大丈夫?まだ、勝利の余韻に――っ!?」 「もう黙れ」 ぐいっと腕を引かれたかと思えば、次の瞬間には先生の腕の中で、花束と色紙ごと、私の身体を包み込む先生の腕の中は、とっても温かかった。 「好きだ」 「嘘っ」 「嘘ついてどうすんだよ」 「だって、そんなのありえないっ」 「あり得たんだから、さっさと認めて素直んなれ」 「大好きだよバカぁあ」 「!……一言余計だっつの」 愉しそうに笑う先生の声が言葉のわりにとっても優しくて、甘くて、私の心全部を包み込んだ。 (寄せ書きと花束を) これで、凛ちゃんて呼んでもいいんだね! はあ?なんでそうなんだよ だって、もう先生じゃないもん ちゃんはやめろ、ちゃんは じゃあ、りんりん オイ んーだーりん? おちょくってんのか、てめぇ 凛っ !……何だよ だいすきっ !……おう Fin 27.09.02 |