世界の終わりと君と僕

 ある日、天使が現れる夢を見た。よく絵画や映像なんかで見る天使の風貌とは違い、随分と庶民的な姿だったが、何故か僕にはそれが『天使』だと思えて仕方無かった。その天使は、僕の目の前で立ち止まり、こう言った。
「この世界は、もうすぐ終焉に等しいものを迎えるだろう」
 その文言は到底信じられないもので、僕にとっては荒唐無稽な戯れ言にしか聞こえなかった。僕はふうんと鼻で笑って、こう言い返した。
「だったら、さっさと終わってしまえばいい」
 天使は、そうか、わかった、と言うと一瞬で塵のように消え失せた。そして僕はまた、暗く深い眠りの世界へと戻っていった。

 次の日、容赦無い日の光が、昏々と惰眠を貪っていた僕の全身を突き刺した。カーテンを閉めないと、と思いながら僕はぼんやりと起き上がる。億劫に開いた瞼の向こうに現れたのは――崩壊した世界、だった。僕は思わず息を飲む。――現実、か? いや、これは現実なんかじゃない……夢なんだ。きっとまだ僕は、眠りの世界を漂っているんだ。そうだ、そうに違いない……。早く、こんな不快な夢から覚めなくては。そう思って僕は右手を挙げる――右腕には赤い液体がだらだらと流れ落ちていた。僕は反射的に驚いて、後退る。すると、今度は左手の指先が何か固い物に触れる。恐る恐るそちらを見遣ると、倒壊した家の木材が横たわっていた。そのささくれだった一端が、指先を引っ掻く。馴染みのある痛みが、そこから伝わってきた。そこでやっと、これが現実に起きていることなんだ、と認識した。逃げることの出来ない事実に押し潰された途端、右腕に刻まれた裂傷がずきずきと痛み出す。傷が深いと痛みは後からやって来る、とどこかで聞いたが、本当だったんだな、とどうでもいいことが頭を過った。
 多少冷静になったところで周りを見回す。周囲の家々も商業施設も、本当に昨日までそこにあったのかどうかすらわからない程、粉々になっていた。一帯はしいんとしていて、鳥の声さえ聞こえない。空は土煙のせいか、黄灰色に澱んでいる。誰かいないのか、と耳を凝らすが、呻き声一つしない。まるで、世界が僕一人を残して死んでしまったかのような感覚だった。僕はよろよろと腰を上げる。両足は何とか無事だった。埃や砂に塗れた布団の上に足を乗せる。
「だ、誰か、いませんか!」
 僕は久しく使っていなかった声帯を、必死に動かして呼び掛ける。――それが、誰にも届くことが無いと知りながら。ただ、そうせずにはいられなかった。

 何度叫んだことだろう。次第に声は枯れ始め、足も地を踏ん張ることすらままならなくなってきた。意識が段々遠くになっていく。――ああ、僕はこのまま、死ぬんだな。どうせなら、皆と同じように楽に死にたかったな、と思いながら、僕はまた布団に倒れ伏す。そのままもう一度、今度は覚めることが無い夢の世界へ移行しよう、と目を瞑った瞬間。
「大丈夫ですか?」
 穏やかな春の光のような、優しい女の子の声が頭上から降ってきた。僕が力無く瞼を開けると、そこには――天使が、いた。綺麗な濡れ羽色の髪に、青紫色のワンピース。そこから伸びる細くしなやかな白い両腕と、同じ色をした陰りの無い健やかな顔立ち。そして、確かな生命力を感じさせる強い眼差しが僕を射抜いた。最期にこんな綺麗なものを見せてくれるなんて、神様に感謝しなければいけないな……。柄にも無いことを考えながら、僕の意識は闇へと溶けていった。

 次に目を覚ました時、身体の痛みはすっかり消沈していた。とうとう死後の世界にでも来たのか、と思いつつ右腕を付いて起き上がる。とその瞬間、右腕に痛烈な疼痛が走った。声にならない叫びが喉を突き、再び地面に転がりかけた僕の身体を、ふわりと優しい香りが包み込む。顔を上げると、そこには天使が――僕が最期に見た少女が、そこにいた。
「無理しないで」
 少女は柔らかく囁いて、僕をそっと寝かしつける。僕はまだ判然としない頭のままで、少女にたどたどしく問いかけた。
「僕はまだ、生きている?」
 僕の曖昧な問いに、少女は深く頷いた。僕はまだ、生きている。その事実に、安堵したような落胆したような、気分になる。僕は少女の顔をじっと見上げた。どこかで見たような気もするが、全く思い出せない。その内に、少女の瞳と視線が合う。きらきらと光を照り返す瞳は、僕が受け止めるにはあまりにも眩しすぎた。ついと目を逸らすと、今度は自身の右腕が目に入る。丁寧に巻かれた白い布は、血生臭い傷を綺麗に覆い尽くしていて、僕の心中に罪悪感がぽろぽろと滲み出た。
「……君は?」
 掠れた声で僕が言うと、少女は少し口ごもった後、決心したように言った。
「……イヴ。私は、イヴよ」
 少女がそう名乗った瞬間、僕は妙に納得した。人間離れした容姿を持つこの少女に、これ以上合う名が果たしてあるだろうか。名前を聞いておいて自分は名乗らないのは失礼だな、と僕は自らの名を言おうとしたが、喉がからからに乾いていたせいで、大仰に咳き込んでしまう。イヴはそんな僕の背中を撫で、水を探してくる、と言って立ち上がった。
「待って」
 僕は無意識の内にそう呟いて、イヴの衣服の裾を掴んでいた。イヴは戸惑いながら、僕の左手にその華奢な右手を重ねる。
「貴方は、生き延びなければならない」
 痛い程真っ直ぐな声と瞳で伝えられ、僕の指先は自然と力を失い宙に浮いた。行き場を無くした掌をイヴはぎゅっと握り締める。暫し無音の時が流れた後、イヴは水を探しに歩き出した。
 僕はその背中を見送りながら、思考する。どうしてイヴがあんなことを言ったのか。僕とイヴは、初対面のはずなのに。僕はふと、今日初めて目を覚ました時のことを思い出す。……一人きりで、音も無く、誰もいない、隔絶された世界――。イヴも、最初に目覚めた時はその世界にいたんだ。それからさ迷って、僕を見つけた。世界はまだ、終わっていなかったと知った。――それだけで、十分なんじゃないか。処置の施された右腕を見つめて、思う。少なくとも、僕にはそれだけで十分だった。
 暫くして、ペットボトルを手に、イヴは僕のもとへ戻ってきた。汲まれた水はどこまでも清く透き通っていて、今のこの澱んだ世界のどこにそんな澄んだ水が存在するのだろう、と純粋に不思議だった。イヴはただ微笑んで水を差し出す。ありがとう、と僕は告げて、水を一口含んだ。優しい口当たりのそれは、隅々まで体に行き渡り、浄化する。一気に飲み干したい衝動に駆られたけれど、イヴが必死に探し出してくれた水だ。大事に飲んだ方がいいだろう、と考えて三口飲んだところで口を離した。イヴは、もっと飲んでもいいのに、と言ってくれたが、僕は、水は貴重だから、と言ってそれを断った。
「もう少し、眠った方がいいわ」
 イヴは笑って、僕を布団へと押し戻した。いつの間にか、埃塗れだった布団がすっかり綺麗になっている。それに気付いた僕は、慌ててイヴに言った。
「君の方こそ、休んだ方が……」
 しかし、言葉の途中でイヴの掌が僕の両目を覆う。その途端、急激な眠気が僕の内側から襲ってくる。
「私は大丈夫。大丈夫だから――」
 僕の意識が、段々と現実から離れていく。
「おやすみなさい」

 そして、僕は夢を見た。青紫の花が咲き乱れる中、顔の見えない誰かが、僕に向かって呼び掛けている。
「     」
 その音声は、僕の耳には届かない。それでも、誰かは何度も何度も叫んでいた。
「     」
 嗚呼、僕は――。

 瞼を上げると、目の前にはもう夜が広がっていた。視線の先に、ちょうど黄色い月が煌々と輝いている。今日は満月のようだった。顔を横にずらすと、イヴの姿が見える。その美しい横顔に僕が思わず見とれていると、イヴがこちらを向いた。イヴは僕と目が合うと、にっこりと小さく笑んだ。
「ついさっき起きたところ」
 僕の言いたいことを察したらしいイヴがそう呟く。しかし、多分……イヴは、ずっと起きていたんじゃないだろうか。僕にはそう感じられたが、何も言わずにただ黙って頷く。僕は、もう一度空を見上げる。
「月、綺麗……」
 イヴは惚けたように吐息を漏らす。
「……この世界は、僕達二人きりのものになってしまったんだろうか」
 僕はぼんやりと呟いた。
「そうね」
 イヴは躊躇い無くそう返した。
「……君は、怖くないの?」
 僕は情けない言葉をやっとのことで絞り出す。イヴの顔なんて、見れなかった。
「怖くない、と断言したら、嘘になってしまうけれど」
 イヴはそこで言葉を切る。そっと、温度の無いイヴの指が僕の手に触れた。
「貴方がいるから、大丈夫。生きていられる」
 ぽたり、と冷たい雫が手の甲に落ちる。はっとして、僕はイヴを振り返った――しかし、そこにイヴの姿は無かった。ただ、小さな青紫色の花が、穏やかな夜風に揺らめいていた。僕は戦慄きながら、その花弁に指を寄せる。その時、遠くの方で人の声がした。それはちゃんと僕の耳に入って反響する。まだ、世界は終わっていない。
 ――ありがとう、僕をこの世界に引き留めてくれて……
 僕は立ち上がって、声を出す。他の誰かに、世界はまだ終わってなんかいない、と伝えるために。

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