彼女の秘密

 その日の帰りは生憎の雨で、俺は傘を持ち合わせていなかった。さてどうするべきか、と悩んでいた俺の頭上に、ふと黒い影が差し込んでくる。おや、と思って振り向くと、そこにはこの学校で一番身長の高い女子として有名な、伊吹が立っていた。何なんだ、と俺が臆していると、伊吹は俺に傘を突き出してこう言った。
「……入っていいよ」
 無愛想に紡がれた言葉。伸ばされた手に握られた、無骨な黒い傘。屋根の縁からひたひたと落ちる水の音。薄青い雨模様の夕方の空気。何でだ、とかいう疑問が湧いていたが、有無を言わさぬ伊吹の強い瞳に、俺はただ頷くしかなかった。

 一定の距離を保ちながら、俺達は歩いていた。こんなの、多感な思春期真っ盛りのクラスメイト達に見られたら、からかわれるに決まっている。やっぱり、今からでも一人濡れて帰ろう。そう決心して、伊吹の方を見上げた。すると、短く切り揃えられた真っ黒な髪が目につく。少し視線を落とすと、日に焼けた顔の中に黒曜石のような瞳が輝いているのが視界に入る。もう一度見上げれば、俺よりも頭一つ分は大きい身長だとわかる。俺と逆の位置にある肩は雨に濡れそぼっていて、申し訳無い気持ちに苛まれた。伊吹、と声を掛けようとしたところで当人と目が合う。俺はそこでつい口ごもってしまった。
「……浅井君」
 さてどうしようかと考え始めたところで、伊吹が俺の名前を呼んだ。あまりに理解し難い出来事だったせいか、俺の思考回路は上手く働かず、ただ目を丸くすることしか出来なかった。
「……なんだよ」
 やっとのことでそう一言返事をする。少しの躊躇いの後、伊吹は口を開いた。
「浅井君は部活、入ってないの?」
 突然の問い掛け。俺は質問の意図が読めないまま、曖昧に返事をする。
「入ってないけど……」
「そうなんだ」
 俺の答えを聞いた伊吹は再び黙り込む。何だったんだ? まさか、気まずい空気を変えようとしてくれたのか? 俺は瞬時にそう解釈して、ならば、と話題を持ち出そうとする。しかし、それは伊吹の真摯な表情によって阻まれた。
「……この見た目で大体想像付くと思うけど、あたしバレー部なんだ」
「……そうか」
 俺が戸惑いながら返答すると、伊吹は目を伏せて、囁くように語り出した。
「あたし自身、運動は苦手なんだけど、この身長のせいで殆ど無理矢理入部させられてね」
「へえ……」
「勝手に期待されて、いきなり試合とかさせられたんだけどさ……当然、ボロボロだったよ」
 そこで、伊吹の声が少し震えた。顔に暗い影が差しているせいで見えなかったが、その瞳には涙が浮かんでいるのではないだろうか、と思った。
「それなのに、なんでこの程度出来ないだ、って……それからは先輩も同学年の子にも何となく避けられてさ……」
「……伊吹は悪くないのにな」
 伊吹の顔から視線をずらして、俺は率直に思ったことを告げる。傘から雨粒がぽたぽたと落ちる。薄暗い道路上には、俺と伊吹以外に人の姿は見当たらない。伊吹は俺の言葉を受けて、少し明るい声を出した。
「ありがとう……でも、ちゃんと真実を告げられなくて、断り切れなかったあたしも悪いんだし……それでね、昨日までは何とか練習に参加してたんだけどね……今日、遂にサボっちゃった。無断で。……あたし、明日からどうしよう」
「……お前、真面目だな」
 俺が思わず口に出すと、伊吹は心底驚いたような顔をする。
「嫌なことがあったら逃げ出すのは普通だろ。よく我慢して部活に出てたな」
「そう……かな……」
「良い機会だから部活止めればいいじゃないか。本当はバレーなんて出来ないんです、ってさ」
「で、でも……」
 そこで、伊吹が口ごもりながら反意の声を上げてきたので、思わず俺は伊吹を睨み上げる。
「なんだよ」
 俺の視線に少したじろぎながらも、伊吹はしっかりと言葉を紡いでいく。
「……あたし、最近やっとバレーが楽しく思えてきて……」
 俺ははあ、と一つ溜め息を吐いてから、伊吹に問い掛けた。
「……伊吹はどうしたいの」
「……あたしは、バレーを続けたい」
 伊吹の強い視線が俺を射抜く。羨ましくなるくらい、まっすぐな瞳だった。
「だったら、周りの評価なんて気にするな。自分がやりたいようにやればいいさ」
「……そうだよ、ね……」
 俺が直球に意見すると、さっきまでの視線はどこへやら、伊吹はまたおどおどとした様子に戻ってしまった。

 伊吹と俺との間に流れる空気が少し和らいできたところで、一番気になっていた大本の疑問をぶつける。
「ところでさ、なんで俺に話し掛けてきたんだ?」
 すると、伊吹は視線を左下の方にやりつつ、少し言いづらそうに話し始めた。
「……あたし、浅井君のこと、ずっと気になってたんだ」
「は?」
 それって、つまり。俺の胸が早鐘を打ち始める。ごくり、と唾を飲み込む。しかし、伊吹の答えは俺の予想とは違っていた。
「浅井君いつも一人でいるし、授業中も静かだし、授業終わったらすぐに帰っちゃうし……一体いつも何を考えてるんだろう、って」
「……なるほど、そういうこと……」
 期待した俺が馬鹿だった。俺は落胆の息を吐く。すると伊吹は何を勘違いしたのか、ごめん、失礼なこと言っちゃった……と暗い顔になる。そんな伊吹を慌ててフォローしつつ、話の続きを促した。
「えっと、そうしたら、今日傘が無くて困ってる浅井君を見掛けて……これはチャンスかな、と思って、ね」
 突然話し掛けたりしてごめんね、と微笑みながら言う伊吹にまた少し胸が高鳴った。しかし、それに気付かないふりをして、もう一つの疑問をぶつける。
「それで、どうして俺にこんな話をしたんだ」
 伊吹はまた言いづらそうに口をまごつかせる。俺は、言いたくないなら別に言わなくてもいい、と告げたが、伊吹はまた笑みを浮かべてからゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「……浅井君なら、きっと答えを見つけてくれる、と思って」
 凄く曖昧で確証の無い理由に、俺は呆れた笑いを浮かべながら溜め息を吐き出す。
「……しかし、今日初めて会話した相手に、こんなヘビーな話をするかよ……」
「ごめん……」
「いや、気にすんな」

 ぽつぽつと互いに会話を紡ぎ、そろそろ駅前通りに着くだろう、という頃合いになった時。不意に伊吹が足を止めて俺を見据えて言った。
「ところで、浅井君。一つ、気になってることがあるんだけど……」
「何……」
 見上げた先にあった伊吹の顔を見て、俺はぎょっとする。俺の、知られてはいけない重要な秘密がバレてしまったかのような。いや、そんなはずは無い……俺はボロを出してはいないはずだ……。
 動揺を必死に抑え込む俺に、伊吹は妖しげな笑みを浮かべて宣告した。

「君、本当は浅井『さん』なんでしょう?」

 俺の身体から一気に体温が奪い取られる。伊吹の、真っ黒な瞳に見入られる。飾り気の無い傘から雫が滴り落ちる。薄暗い住宅地の狭間。足下の水溜まりに雨粒が一つ、ぽちゃりと落ちた。雨はまだ止みそうに無い。

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