【八双】お人形さん

――体が動かない。
何をしていて、なぜここにいて。ぼんやりと思いを巡らせたものの、もうすべてがどうでもいいことのように思えた。柔らかい風が、桜の花びらとともにカーテンをふわりと舞い上げる。その向こうから現れた彼の姿に、ほっと胸を撫で下ろした。
「――お人形さん」
炙ったようにとろけた瞳で、彼は愛おしそうに名を呼ぶ。八雲先生、と唇を動かすけれど、喉は乾いた息を吐くばかり。
「お人形さんにぴったりの、愛らしいドレスを手に入れたんですよ」
彼の指が、ゆっくりと肩を這う。
「朝の手入れをしたら、着せてあげますね」
長い指が、今度は朱色の髪を掬い上げた。
「ああ……私の、私だけの、可愛い可愛いお人形さん。この髪の一本も、小さな爪の一枚も、もう誰にも渡しはしませんよ」
うっとりと焦がれるように――ねっとりとまとわりつくように。彼はそう囁くと、そっと口付けたのだった。

目を覚ますと、そこはわたしの部屋ではなかった。けれど枕元に座る人を見て、わたしはここが八雲先生の家だと思い出す。
「お人形さん、随分と魘されていましたが……何か嫌な夢でも?」
こちらを不安げに見下ろす八雲先生に、どきりとする。
「……いえ、大丈夫です」
父様が、暖かくなって注文が増える前に美術品を仕入れたいと、しばらく家を空けることになった。けれどその間にわたしは体調を崩してしまって、八雲先生が看病のために先生の家に連れてきてくれたのだ。
「まだ、辛いですか?」
八雲先生はますます眉尻を下げると、わたしの頬にそっと触れる。
「少し……でもだいぶよくなりました」
そう答えると、八雲先生はふっと表情を和らげた。
「今、水と何か食べるものを持ってきます。少し待っていてください」
立ち上がり、部屋を出る八雲先生をぼんやりと目で追う。
ひとりになって、わたしは改めて部屋を見回した。庭では、小鳥たちが楽しげに囀りあっている。開け放たれた窓からは心地よい風が舞い込み、縁側に置かれた朝顔が機嫌良さそうに揺れた。枕元には、寝る前に八雲先生が飲ませてくれた薬包と、いつのまにか乾いてしまったグラスが置かれている。どれほど眠っていたのだろうと思いながら、わたしはふと頭の方に目をやった。
そこには、一体の人形が置かれていた。赤子と同じくらいのその人形は、長い真っ白な髪と黄金色の瞳がとても綺麗だった。桃色の愛らしいドレスもよく似合っていて、なぜか心惹かれてしまう。
「――お人形さん」
部屋に響いた八雲先生の声に、はっと我にかえる。
「お水をどうぞ。果物もありますよ。食べられそうでしたら、ぜひ」
「ありがとうございます」
起き上がろうと、躰に力を入れる。けれど、うまく力が入らない。
「……ああ、長く眠っていたからですね。大丈夫、私が食べさせてあげますよ」
「すみません、ありがとうございます」
八雲先生は小さく切った果物を摘み上げると、わたしの口に運んでくれる。果物の冷たさと八雲先生の指の熱を唇に感じて、なんだか不思議な気持ちになった。
「どうですか?」
「ひんやりしてて、おいしいです」
お腹が少し満たされたところで、またすぐに眠気がやってくる。
「さあ、もう少し寝てください。次起きたときにはきっと、体が楽になっているはずですよ」
八雲先生の優しい声に、わたしはゆっくりと頷く。
「ありがとうございます。八雲先生が言うなら、きっとよくなりますね」
そう呟いて、そっと目を閉じる。父様が帰ってくるまでには、元気にならないと――ひとつ季節が過ぎるほど寝ていたとはつゆも思わず、眠りに溶け始めた頭でそう思うと、わたしはまた長い闇に落ちていったのだった。

――そこは小さな椅子の上。見える景色は毎日変わりばえなく、ただ時折部屋に飾られる花の色が変わるのを見つめるばかりだった。
「ああ、お人形さんは、今日もとても可愛らしいですね」
満たされた様子で目を細める彼を見ていると、空っぽだったはずの胸の奥が熱を帯びる。そして髪を丁寧に梳かすと、彼は壊れた場所がないか、いつも通り丁寧に体に触れた。それが終わると、彼にそっと抱き上げられて、視界がぐらりと傾く。
「……私と二人きりで過ごす日々は、少し退屈かもしれません。でも大丈夫ですよ、私はずっとお人形さんの傍にいて、必ずあなたを幸せにしますから」
――もうこの愛からは逃れられない。もうこの執着からは逃れられない。
「だから早く――私の、私だけのお人形さんになってくださいね」
聞こえてくる音に、もう何も感じることはない。遠のく意識のなか、わたしはただその心地よい音に、耳を傾けていたのだった。

近くで聞こえたガタリという物音に、はっと目を開ける。八雲先生の部屋は宵闇に包まれていて、頭の上に飾られた人形だけが妖しく浮かび上がっていた。心地よく奏でられる鈴虫の音を、邪魔するように、部屋に響いた物音の出所を探る。ガタリ、また音が鳴る。音の方を見ると、すぐ近くに座るその人形と視線が交わった。艶めかしい白い肌はうっすらと上気していて、朱色の長い髪は美しい毛艶を保っている。同じように紅く揺れる瞳も、何か意思をもっているようで――。
「?」
そこで、ふと違和感を感じる。わたしは思わず、その人形に手を伸ばした。けれど、躰がまた思うように動かずその場に倒れ込んでしまう。その拍子に、懐にいれていた手鏡が布団の上に転がり落ちた。
そのとき、わずかに開いた窓から月明かりが射し込む。その冷えた明かりは、わたしの腕にかかった長い髪を照らし出した。けれど、それにはあるはずの色がなく――
「っ!」
真っ白に透き通った、わたしの長い髪の毛。動かない体を必死に捩り、わたしは手鏡を覗き込む。そこに写っていたのは――髪の色を失い、黄金色に光る瞳をもつわたし。そしてその後ろには――わたしの髪の色、わたしの目の色の人形が、ただ愛らしく座っていた。
「――お人形さん」
八雲先生の声が暗闇に響く。その瞬間、視界がぐるりと回転して――次に目の前に映ったのは、手鏡を手にぴくりとも動かない自分の姿だった。
「ああ、ついに……」
八雲先生は愛おしそうに目を細めると、小さくなったわたしの体を大事そうに抱き上げる。
「――私だけの、可愛い可愛いお人形さん。これからも、私が大事に愛し続けますから。……これから先、決して私から離れてはいけませんよ」
縋るような彼の瞳に、答える声はすでになく――わたしは、言い知れぬ闇の中で不気味に揺れるその瞳を、ただ無機質な目に映すことしかできないのだった。




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