【桜双】ある夜のこと

――ある夜のこと。桜時はひとりリアンの店じまいをしていた。葵は展示会が近いため、美術学校に泊まるらしい。ふとカウンターに目をやる。そこには先日双葉が忘れていったハンカチが置いてあった。忘れ物を届けるのを口実に、双葉に逢いに行こうか――そんな考えが、一瞬桜時の脳裏をよぎる。しかし、すでに空には月が昇りはじめていた。いくら恋仲とはいえ、こんな時刻に女学生を訪ねるのは気が引ける。
「……よし、これでいいか」
店の前を掃き終え、桜時はひとり息を吐く。明日あたりは、彼女がリアンに来るだろうかと思いながら、箒を片付けていると――
「……桜時さん」
自分を呼ぶ、聞き慣れた声にはっと振り返る。
「ありゃ、お嬢ちゃん?」
そこには、なぜか頬を赤らめて桜時を見つめる双葉の姿があった。彼女に思いを馳せていたのもあり頬が緩むが、桜時はすぐにいつもの様子で片目を閉じる。
「どうしたの!? 女の子がこんな時間に、ひとりは危ないだろ」
しかし、双葉はゆっくりと桜時に近づくと、そのまま彼の広い胸の中に飛び込んだ。そして、そのままその背中に手を回すと、小さな手でぎゅっと彼の着物をつかむ。いつもの凛とした彼女と様子が違い、桜時は少し不安になって尋ねる。
「お嬢ちゃん、どうした? 何かあったのかい?」
そんな桜時の言葉に、双葉はゆっくりと顔を上げる。しかし、その表情はなぜかとても幸せそうで。
「……桜時さんの匂いだ。ふふふ」
彼を嬉しそうに見上げる彼女の瞳は、どこか色っぽく濡れていた。どくんと心臓が跳ねたのを悟られぬようにしながら、桜時は双葉に尋ねる。
「もしかしてお嬢ちゃん……」
「ふふ」
顔を赤らめてご機嫌な様子を見て、双葉が酒に酔っていることを悟る。桜時は困ったように微笑むと、抱きついたままの彼女の背中に優しく手を当てた。
「ほら、家まで送ってあげるからおいで。お嬢ちゃん寒くないかい? おじさんの上着羽織って……」
そんな桜時に、双葉はむっと眉間に皺を寄せる。
「いやです〜帰りません! 今日は桜時さんといるんです!」
酔っているせいか、珍しく駄々をこね、口を尖らせる双葉。年相応の、いつもより少し幼い彼女を、桜時は堪らなく愛おしく思う。無理矢理でも送り届けるべきなのだろうというのはわかっていたし、普段の桜時ならそうしていただろう。しかし――葵がいないのもあって、魔が差してしまったのかもしれない。桜時はそんな彼女を、リアンの中に招き入れたのだった。

桜時が淹れたホットミルクが入ったカップを、双葉は両手で掴むとそっと口をつける。
「お嬢ちゃん、だれと飲んでたの?」
「女学校のお友達です。流行りのビアホールに行かないかと誘われて……」
「そうか。でもね、あんま羽目外しちゃだめよ? おじさん心配だから」
桜時も双葉の横に腰を下ろすと、まだ湯気が立っているカップに手を伸ばす。しかしすぐにふわりと甘い香りがして、桜時が伸ばした腕に双葉がそっとよりかかった。猫のようにすり寄る彼女を、桜時は戸惑いながら覗き込む。。
「……お嬢ちゃん、さっきからどうしたの? 酔ってるだけ?」
桜時の声に、双葉は少しの間俯いていたものの、すぐにその顔を見上げた。
「……わたし、魅力ないですか?」
頬を染め、上目遣いで双葉が尋ねる。潤んだ瞳が揺れ、まっすぐに自分を見つめる姿に、桜時はじわりと胸が熱くなるのを感じた。しかし彼は平静を装うと、そんな双葉の頭をぽんぽんと撫でる。
「……お嬢ちゃんは十分魅力的だよ。俺には眩しいくらいさ」
「じゃあ――!」
「お嬢ちゃん、もう遅いし二階で横になりなよ。ほら、手貸すから」
桜時にそう誤魔化され、双葉は言いかけた言葉を飲み込む。そして、すっと目を伏せると、
「……わかりました」
小さな声でそう呟いた。
「ほら、おいで」
桜時の大きな手が、目の前に差し出される。双葉はその手に自分の手を重ねると、きゅっと彼の指を掴んだ。

二階に上がると、桜時は双葉を布団に寝かせる。しかし、彼女は桜時の着物の裾をつかむと、離れようとする彼を引き止めた。
「……桜時さん、一緒に寝てくれないんですか?」
「ええ? おいおい、お嬢ちゃんいつのまにそんな大胆になったの?」
そうおどけて笑う桜時。しかし双葉は少しだけ目をそらすと、またまっすぐに桜時を見つめる。そして彼の唇に顔を寄せると――ちゅっとそこに口付けた。

「! ちょ、お嬢ちゃ……!」
「……わたしは、ずっとこうしたいって思ってたのに。してくれなかったのは桜時さんですよ」
顔を真っ赤に染め、震える声で双葉は囁く。桜時はしばらく驚いた様子で目を見開いていたが、ふっと息を吐くと、優しく目を細めた。
「――お嬢ちゃん」
桜時は双葉の頭をまた優しく撫でる。
「……この歳になるとね、大事なものほど、手が出せないんだよ」
そう言うと、桜時は宝物に触れるように、そっと双葉の頬に手を伸ばした。顔を寄せると、今度は桜時からゆっくりと唇を重ねる。彼からされる初めてのキスに、双葉は心臓が大きく跳ねるのを感じた。煙草のせいかほんの少し苦いそれに、胸が甘い熱でいっぱいになる。身体中が脈打ち、指先までちりちりと痺れるような心地がした。
角度を変え、丁寧に確かめるようにされる口付けが嬉しくて、双葉は桜時の着物をぎゅっと握る。しかし、すぐにその手は桜時に剥がされて、長い指を絡めながら布団の上に縫い付けられてしまった。
「っ……」
桜時が覆いかぶさり、全身でその熱を感じる。熱い吐息が漏れ出し、双葉の腰が甘く揺れた。やがて、彼の唇が彼女の首へと下りていく。赤らんだ肌をなぞられ、双葉は恥ずかしさで、くらくらと眩暈がした。
「あ……」
桜時の手が、双葉の袴にかかる。思わず声を漏らすと、桜時の手が不意に止まった。
「……怖いか?」
双葉の顔にかかっていた髪を、桜時は優しく寄せてやる。熱を帯びた目で見下ろされ、双葉はその熱に溶けそうになった。そんな桜時に、双葉は静かに首を横に振る。
「……怖くないです。大好きな桜時さんですから」
まっすぐに答えると、桜時ははっと目を見開く。しかしすぐに困った顔をすると、乱れた前髪をくしゃりと掻き上げた。そして、何か思い悩んでいる様子で眉をひそめる。
「……桜時さん?」
やがて、桜時は双葉の胸元に顔を埋めると、彼女の身体を抱き寄せる。そして、何かに耐えるように声を絞り出すと――
「……お嬢ちゃん、悪い。やっぱりもう少し待ってくれない?」
そう呟くと、彼女に回す腕にぎゅっと力を込めた。
「……今だと、加減できそうにない」
どこか縋るような声に、ひときわ大きく心臓が跳ねた。ばくばくと暴れる胸の鼓動が、きっと桜時には伝わっているだろう。そう思うと、双葉の心臓はますますうるさく騒ぐのだった。
やっとのことで双葉が頷くと、桜時は顔を上げる。そしてもう一度双葉の顎を掬いあげると、深い口付けを落としたのだった。

朝、わたしが目を覚ますと――
「っ!」
なぜかわたしはリアンの二階にいて、しかも桜時さんの腕枕で眠っていて。
「な、なんで……」
ふと胸元を見ると、着物が乱れている。慌ててそれを整えていると、桜時さんがゆっくりと身体を動かした。
「お嬢ちゃん起きたー? おはよ」
「お、おはようございます……えぇっと……」
――記憶を辿る。たしか昨夜友達にビアホールに誘われて、ビールを飲んで。友達の恋愛の話を聞いてたら、桜時さんに会いたくなって、それで……。
「あ、あの、わたし、昨日なにかご迷惑かけました?」
恐る恐る聞いてみる。
「ええ? 覚えてないの? ……ま、それじゃあ、おじさんの判断は正しかったってわけか」
桜時さんは眉尻を下げてそう笑うと、大きな手でわたしの顔を掬いあげる。そして――
「っ!」
啄ばむように、わたしの唇に口付けた。全身がかぁっと熱くなり、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「あらら、昨日はあんなに大胆だったのにねぇ」
「! や、やっぱり、わたし何かしたんですね……!」
どうしよう……と視線を彷徨わせる。けれど、桜時さんはそんなわたしを見て優しく目を細めると、そのままぐいと抱き寄せた。
「心配しなくて大丈夫だよ。お嬢ちゃんは可愛かっただけだから」
よくわからず、首をかしげるわたしに、桜時さんはまたひとつ、キスを落とす。そして耳元に顔を寄せると――
「……双葉、今度は大事に抱かせてくれよ?」
耳元で、低く甘く囁かれる。
「だ、抱か……!」
火が出そうな顔を、慌てて両手で覆う。そんなわたしを見て、桜時さんは優しく笑ったのだった。




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