04
さわりさわりと頬をくすぐる風が温かい。わたしをふわりと受け止める草木の青々しい香りが鼻腔を刺激する。まぶたの裏が赤い。太陽が高いのかな。
……ん?風?草木?太陽?
「やあ、起きたかい」
ぼんやりと、ふわふわしていた意識を覚ますように一度頬を軽く叩くと、やんわりとした声が聞こえた。珠のような、と表すのは的外れだろうか。じんと熱くなった頬もそのままに声に導かれるまま振り向くと、思った通り、彼がそこにいた。
「……なにそのティーセット」
なんか優雅に午後のお茶会をひとりで開いていたけれど。すらりとした一本足の丸テーブルに、彼の首筋まである細い格子の背もたれの椅子。きっとわたしが腰掛けたら頭まで背もたれについてしまうだろう。流れるような自然な動作で口元に運ばれた、繊細な細工のティーカップからは、くゆりと湯気が揺らいでいる。
テーブルも、イスも、ティーカップも、すべてが揃えられたかのように真っ白で、この草原には少々似つかわしくないなと思った。
「きみがいつまでたっても来てくれないから暇を持て余していてね」
「わたしのせいなの!?」
わたしの夢の中の住人のくせに、なんか理不尽なことを言われた気がする。わたしだってずっと寝てるわけじゃないんだけど。思わず声を上げたわたしに、彼は目を細め、テーブルの上で組んだ手の上に細い顎を乗せて笑っている。
あれ?さっきまで彼が持ってたティーカップ、どこいった?
「まあ、ずっと立っているのも疲れるでしょう?よく来たね。今日はゆっくり話せそうだ」
本当に、そう、本当に嬉しそうに表情を緩ませるものだから。他に言いたいこともいっぱいあったのだけど、わたしは促されるまま、彼の正面に位置する白い椅子に腰掛けた。思った通り、椅子の背もたれはわたしの頭まですっぽりと支えている。
クロスも何も掛かっていなくても、真っ白で染みもくすみもないテーブルの上はとてもきれいに片付いている。何ものっていない。湯気を立てていたティーカップも、飲み物を注いだであろうポットも、茶葉も、シュガーポットも。なにひとつ。
「どうしたんだい?なにか面白いものでもあるかな、テーブルの上に」
いつまでたっても何も出てこないテーブルを凝視しているわたしの頭の上から、鈴を転がしたような笑い声が鳴り響いた。ゆるりと目を細めて、口元を陶器のような白い手で覆っている。なんなんだ、見た目や声だけでなく動作まで美しいとか。
ぼうっとしてると彼のすべてに見惚れそうで、気を取り直すように頭を左右に振る。少し怖くなったのは、どうしてだろう。
「や、だってさっきまでお茶飲んでなかった?」
「飲んでたね」
あっけからんと肯定を示す彼に、ますます頭が混乱してくる。飲んでたよね?飲んでたんだよね?じゃあさっきまでその手に持ってたカップはどこにいったの。まったくもって意味がわからない。というかこのテーブルも椅子も、前来た時は影も形もなかったじゃないか。いったいどこから持ってきたんだ。
「ああ、混乱させてしまったかな。それはごめんね」
小首を傾げて謝罪を述べる彼の動きに沿って、さらりと艶やかな髪が揺れる。深い深い紫の瞳がゆっくりと細まっていく。引き込まれそうだ。
彼はその、白魚のように細く彫刻のように整った指先をわたしの目の前に持ち上げた。なんだか手が、不思議な形をとっている。まるで何かをつまみ上げているかのような。いったいどうしたのかと彼の顔を見上げてみれど、彼はただただ笑みを浮かべるだけ。仕方なく視線を元に戻せば、彼の指先には先ほど見た、白いティーカップが握られていた。
「え!?うそ!!」
「うそじゃないさ。これは本物。触ってみるといい」
彼に促されるまま、そっとそのティーカップに手を伸ばす。表面はつるりとなめらかで、細かい細工の凹凸まで指先にきちんと感じる。さっきまで存在しなかったことは目で見て理解していたし、まるで手品のように現れたこれも本物だ。目を丸くして驚くわたしに、彼はくつりと声をこぼした。
「すべては想像力しだいなのさ」
そして彼は手に持ったカップを静かに傾ける。カップの中身はふちを滑り、白い白いテーブルへと落ちていく。けれど落ちるはしからふわりと消えて、テーブルにしみは一つも浮かばない。傾け続けるカップの中身に終わりは見えず、いつまでもいつまでも液体をこぼしては消えていく。
不思議な光景に目を奪われ、わたしはただただカップとテーブルと、こぼされる液体を眺め続ける。しかしはた、と思い出した。これは夢なのだから、不思議なことが起きてもちっとも不思議ではないのではないか、と。
「わたしにもできる?」
「わたしにできて、きみにできないことは何一つないさ」
気づけばわたしは彼に教えを乞うていて。彼はまた、いつの間にかその手からティーカップも手放していた。この世界の住人の、彼が言うならそうなのだろう。
わたしは、さっき彼がやっていたそうに右手を何かをつまむような形にしてみる。いつまでその手を眺めていても、ちっとも何も出てきやしない。なんだ、うそだったのか。
「……出てこないけど」
「想像力が足りないのさ。ただ漠然と飲み物を欲するだけじゃだめ。どんな温度で、どんな味で、どんな色で、どんな香りなのか。しっかり思い浮かべてごらん」
そういうと、彼はそのほっそりとした手を伸ばし、わたしの目元をすっぽりと覆ってしまった。大きくしなやかな彼の手が作り出す暗闇は、自然と心が落ち着くようで、ほっと息を吐き出す。言われた通り、わたしが望む温度、味、色、香りを次々と思い浮かべていく。気がつくと、てのひらにほんのりとした温度を感じた。
彼がそっとどけた手の先。わたしの指先には、わたしのお気に入りのマグカップが握られていた。中身は甘い匂いを漂わせる、少しぬるめのココア。
「きみはずいぶんとかわいい趣味をしているね」
「うぐっ」
ちっともおしゃれではないけれど、わたしの好みにぴたりとあうココアはとてもおいしい。そんなに熱くもないため、ほんのりとした温かい甘い液体が喉を通り過ぎていく。消えずに飲めた事実に驚きはするけれども、まあいいかと思ってしまった。
飲んで中身が消えてしまっても、また目をつぶって思い浮かべればなみなみと液体がマグカップを満たす。なんて便利ですてきなのか。自然と口元に笑みが浮かぶ。
「そういえば、まだきみの名前を聞いていなかったね」
「そういえば!こないだも結局答えられなかったしね……なんか今更な気もするけど」
わたしがそう笑えば、目の前の彼もそうだね、と言って笑った。彼がテーブルに手をかざす。すると香ばしい香りをふわりと漂わせるクッキーが現れた。シンプルな黄色のバタークッキーにはじまり、チョコチップがふんだんにあしらわれたもの、アーモンドがたっぷりのった香りのいいフロランタン。白と茶色の2色がかわいいアイスボックスクッキー。
口に運べばさくりと音を立て、ほろほろと口の中で崩れていく。焼きたてなのか温かく、なくなることもない。幸せだ。
「というか、わたしの夢の中の人ならわたしの名前くらい知ってると思うんだけど……」
「それじゃあ意味が無いんだよ。きみの口から、きみの声で、きみの意思で教えてもらわないと」
「ふーん……?」
クッキーとココアを片手に彼の言葉を聞いても、やっぱりよく分からなかった。彼はたまに難しいことを言う。ほんとにわたしの夢の中の人なんだろうか。まあ、名前くらい教えても構わないだろう。こんなによくしてくれるのだし。クッキーもおいしいし。
「わたしは未子だよ」
「……そう、未子……いい名だね」
よく考えもせずに教えてあげれば、彼はふわりと口角を引き上げたのだった。深い渾沌色がゆるりと、楽しげに細められた。
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