Lip! | ナノ

02


気がついたら、そこは草原だった。
え、どゆこと。わたしはさっきまで……。あ、もしかしてこれ、夢か。確か、明晰夢っていうんだっけ。意識がはっきりしたまま見る夢。明晰夢では、空を飛ぶことも出来るらしいけど本当なのかな。
ぐるりと周りを見渡す限り、風もないのにそよぐ草ばかり。


「……とうっ」


ちょうどよくなだらかな下り坂になっている草原を、助走をつけて駆け下りる。思い切り踏み込んで走り幅跳びの要領で飛び上がれば、肩まで伸ばした黒髪が靡いた。太ももにまとわりつく布の感覚に、私は今制服を身にまとっているのだとようやく気づく。
ジャンプしたことでいつもより持ち上がった視界だったが、それはぐんぐん元の高さに戻ってしまう。つまり、わたしは飛ぶこともできずに落ちていた。


「うわああああ!」 


ごろごろと坂道を転げ落ち、仰向けの状態でやっと静止する。さわさわと揺れる草が頬に触れる感触が妙にリアルだ。真上から差し込む太陽の光が眩しくて、自然と目が細まる。
のそのそと体を起こすために地面に手をつけて、違和感に肩が跳ねた。


「……いたっ」


ぴりりと痛む掌を見れば、転がったときに出来たかのように皮膚が擦れていた。血が出る程ではないが、お風呂に入れば染みるだろう。
夢で、こんなに現実味のある感覚があるものだろうか。わたしは今まで生きてきて、夢で痛みを感じることはないのが常識だと思っていたのに。
その事実を否定するように、わたしの両手はひりひりと痛みを訴えている。


「あっはは!まさか飛ぼうとするなんて思わなかったよ」


わたし一人しかいないと思っていた空間に、突然第三者の声が割り込んできた。ころころと楽しげに笑うその声は、不思議と高くも低くもない、女性とも男性ともとれるきれいなものだった。


「やあ、はじめまして」

「わっ」


わたしの顔をのぞき込むように降ってきたその顔は、わたしと目と鼻の先でにっこりと笑みを浮かべた。
焦点が結べない程近くにあるその顔だが、恐ろしいほど整っているのがよくわかる。吸い込まれそうな深い紫色の瞳が、柔らかく細められた。

まるで、そう、底の見えない混沌のよう。


「やっと会えたね」


言葉の最後がすうっと空気に溶けて消えていくような。そんな美しい声にぼうっと聞き惚れていた。
そんなわたしを彼、もしかしたら彼女かもしれないが、彼は長い睫毛を震わせて笑った。


「え、えっと、あなた、は……?」


今までこんなに綺麗な人に会ったことなんてなかったものだから、緊張で声が震える。いや、声どころか手も足も震えていた。
これはわたしの夢のはずなのに、こんな美しい人が出てくるなんて、驚きだ。わたしの想像力も捨てたもんではないのかもしれない。


「わたしかい?きみはおかしなことを聞くね。わたしはきみだよ」

「……はい?」


まるで謎掛けでもしてるみたいな返答に、平均そこそこのわたしの頭はただただ混乱した。おいおい、よしてくれよ。こんな美人さんがわたしって、わたしそこまで自惚れてたっけ?夢がその人の思いを映し出すって聞いたことはあるけど、これはあんまりじゃないかな。
わたしに爆弾を落としてくれた件の彼は、わたしの目の前でにこにこと笑みを浮かべている。

ええと、ああ、もしかして。
これはわたしが見ている夢だから、登場する自分もわたし自身だと、言いたいのだろうか。
ちら、と伺うように見てみても、他人の心なんて分からない。彼は変わらず笑っているだけだった。


「さあ、わたしは答えたよ。わたしにも教えてくれるよね。きみはだれかな?」


だれ、と聞かれても。わたしはわたしでしかないわけで。彼がいったい、わたしにどんな答えを求めているのかは分からないけれど。しがない女子高生とでも言えば満足するだろうか。
わたしが答えられるものなんて、職業と、性別と、年齢と。あ、あとは名前くらいだろうか。むしろ、なぜその答えが初めに出てこなかったか不思議なほどだ。だれ、と聞かれればまず名を名乗るだろう。
目の前の男がそうしなかったものだから、すっかり頭から抜け落ちてしまっていたのかもしれない。

わたしは、これこそが彼の求める答えだとでもいうように、自信満々に笑みを浮かべた。彼もそれがわかったのか、とてもうれしそうだ。
わたしは、そっと口を開く。


「わたしは、」


そこで、まるでテレビの電源が切れるかのように、いきなり目の前は真っ暗になった。

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