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02


一匹のゴルバットが威嚇をするように甲高い声を上げると、密集してこちらの様子を窺っていた他のゴルバット達も呼応するかのようにいっせいに鳴き声をあげた。ガラスの食器に金属のフォークやスプーンを擦った時のような、黒板に爪を立てた時のような、背筋がざわつく嫌な音が狭い洞窟内に反響する。頭の中がかき回されるような不協和音の大合唱に、わたしは思わず男の子の手を振り払って、自身の耳を塞いでごつごつした地面に蹲った。

わんわんと耳鳴りがひどくなる中、一歩も動けなくなってしまったわたしの服の裾がくいっと引っ張られた。


「ミコ」


辺りにはゴルバットの放つ凄まじい音が響いているのに、裾を引く男の子の声は不思議とわたしの耳にするりと飛び込んできた。耳から手は離さずに男の子を窺い見れば、彼は澄んだ青い瞳でじっとこちらを見つめている。

この子はこの大音量に何も思わないのだろうか。表情が一つも変わっていない。


「ミコ、こっちだよ」


ぐいぐいと制服の裾を引っ張っていた男の子は、ほうけた様に反応がないわたしの態度に、今度は直接手を握ってきた。

ひんやりと冷たい手。さっき握られた時は感じなかったが、まるで温度が感じられない。陶器のように白く滑らかなてのひらにびくりと肩が跳ねる。男の子はそんなわたしの様子にちっとも興味がないのか、握った手に力を込めてわたしを立ち上がらせた。

どことなく焦らすような、急に上へと持ち上げられた視線。つま先がたたらを踏んでよろめく。わたしの腰程しかない小さな男の子が、決して軽くはないわたしを引き上げたことにただただ驚く。だってわたしは、少しも体に力を入れていなかったのだ。脱力した体はさぞ重く感じるだろうに。

呆然と男の子を見下ろしていると、思い出したかよように大音量の金切り声が鼓膜を刺激した。びりびりと鋭く痛む頭に、眉間に皺がよる。みっともないうめき声も口からこぼれた。


「こっちっていったって……!」


彼の示す方向は、今辺りを照らしてる僅かな光源がぽつぽつと弱くなっていっている。進めば進むほど暗闇へと向かっていくことになるだろう。暗いところで、こんなごつごつした道を歩く自信はない。それどころか、暗闇は仮にも蝙蝠であるゴルバットの専売特許じゃないか。

ぐずぐずしている間に音は大きくなるばかりだし、今にも飛びかかってきそうなゴルバットだっている。痛む頭ではうまく考えをまとめることもできない。


「こっち」

「ああもう!」


頑なに先を指示する男の子に促され、わたしはしっかりと彼の手を握ると全力で地を蹴った。でこぼこした道がとても走りにくい。何度も躓くわたしに手を引かれている男の子は、足の長さが違うにも関わらず平然と着いてくる。いったいこの子はどんな運動神経をしてるんだ。

ついこの間磨いたローファーがみるみるうちに傷つき埃まみれになっていく。あまり運動神経がよろしくないわたしがひいひい言いながら一生懸命走っていれば、背後から空気を裂くような鋭い音がした。


「ミコあぶない」

「え?……わああ!!」


引いていた手をぐいっと後ろに引っ張られ、わたしは硬い地面に強かに尻もちをついた。ずきずきともひりひりとも言い難い痛みにうめいていると、さっきまでわたしの頭があった場所になにがすごい勢いで突進してきた。

すぱっと空気が切れる音と、衝撃波。ゴルバットがついにわたし達を攻撃してきたようだ。たらりと冷や汗が流れるのが分かる。男の子が手を引いてくれなければ、確実に怪我をしていただろう。運が悪ければ、もしかしたら、そのまま、なんてことも。遅れて、引きつったような悲鳴が喉を通っていく。手足が震えてうまく動かせない。

命の危険に曝されるなんて、今までなかったのだ。


「ミコ、はしって」

「ひっ」


追い討ちをかけるように次々と襲い来る攻撃。男の子の促すような声に、わたしはどうやって立ち上がったかも分からないくらい、必死になってまた走り出した。それでも焦る思いとは裏腹に、緊張と恐怖に引きつった体はうまく動かない。何度転んだか分からないくらい。制服はもう泥だらけだ。それでも男の子の手はしっかりと握っている。

多分、離したくないんだ。ここでこの子の手を離したら、わたしはひとりぼっちでこの恐怖と戦わなくちゃならない。そんなのは嫌だ。そんな、わがままな思いから。


「も、もう、もういや……!」


体力なんて気にしていられない。ただただ前に足を進めることだけに集中しているためか、喉は熱いしお腹は痛い。足も段々震えてきて、もう一歩も進みたくないのに、追いかけてくるゴルバットを振り切ることはできない。

思わず吐いた弱音に、背後の男の子が首をかしげた気がした。


「いや?」

「い、いや……!もう無理、こわい、走りたくない、死にたくない……!!」


いつの間にか光源は薄らいで、周りは真っ暗だ。先を見通すこともできない。今まで読んだり書いたりした夢小説なら、ここで助けが入ったっておかしくないのに。こんな真っ暗闇じゃ、人どころか他のポケモンにさえ会える気がしない。わたしよりも小さい子がいる前で弱音なんて言いたくなかったけれど、もう怖くて怖くてそんなこと考えてられなかった。

だって、夢ならいつだって、人も、ポケモンも、世界も、優しいはずなのに。

疲れきった足が何もない地面の上で縺れて転ぶ。慌てて身を起こせば、頭上にも右にも左にも、そこにあるのはゴルバットの姿だけ。また情けない声がもれた。真っ暗で見えないはずなのに、慣れてしまったのかわたしの目はしっかりと男の子もゴルバットも写し出す。地面に座り込んだわたしの目線に合わせてしゃがんでいる男の子をたぐり寄せる。ぎゅっと抱きしめたけれど、緊張からか温かさは感じられなかった。


「ミコはしにたくないんだよね」

「死にたくない!痛いのもいや……!」


じわりと目頭が熱くなって、鼻がつんと痛む。涙がぼろぼろとこぼれて、抱きしめた男の子の頬を濡らしていく。力加減なんて考えてないから、きっと苦しいはずなのに、男の子はそんなわたしの泣き顔を下から見上げて、そっとその小さな両手を伸ばした。

撫でるように、わたしの頬を、目の縁を撫でて涙を拭っていく。相変わらず表情はとぼしいけれど、まるで泣かないでとでも言っているかのようだ。


「わかった」


一通りわたしの顔を撫でた男の子は、わたしの腕の中でくるりと向きを変えると、ゴルバットを見上げる。さっきわたしの涙を拭った小さな手をすっと持ち上げると、ゴルバット達へ向けた。その突然の行動に、わたしもゴルバットもただ男の子を見つめるだけしかできない。

ぱちりと小さく、何かが弾ける音が耳に響く。同時に、真っ暗な洞窟に澄んだ声が響いた。


「ミコの思うままに」


瞬間、辺りが昼間のように明るくなった。何かを摩擦して起きたような、ばちばちと激しい音が響く。何事かと目を見開けば、男の子の掲げた両手が発光していた。

いや、雷だ。男の子の両手から強い雷が発生していた。突如発生した雷は、まるで伝染するかのようにゴルバットを襲う。電気が苦手なゴルバットは、たまらず悲鳴をあげて来た道を逃げ帰っていった。あっという間の出来事に、うまく事態が飲み込めない。ぽかんと男の子を見下ろすが、男の子はまるで当然とでもいうように上げていた両手を下ろした。

まさか、まさか。この子は、擬人化したポケモンだった、ということなのだろうか。わたしもよく書いた、あの、擬人化。


「きみ、もしかして、人間じゃない……?」


恐る恐る尋ねてみれば、男の子は一度首を傾げてからこくりと頷いた。どうやらここは擬人化ありのポケモンの世界らしい。じわじわとわたしの胸を覆うこの気持ちはなんだろう。とりあえず、今のところは助かった安堵ということにでもしておこうか。

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