Lip! | ナノ

01


夢を見ていた気がする。とても、とても恐ろしい夢を。内容なんて欠片も憶えていないけれど。引くことのない冷や汗を、絞り出すような荒い息を、わたしはひとつふたつとこぼす。見下ろしたわたしの膝は、酷く震えていた。


「おはよう」


座り込んで俯いているわたしの頭の少し上から、抑揚のない、それでもきれいな声が降ってきた。珠のようなとでも言えばいいのだろうか。未発達な、聞き覚えのないその声に、わたしはびくりと肩を揺らした。

いったいいつからそこにいたのだろう。俯いたまま動けないわたしの後頭部に、刺さるような視線を感じる。震えるてのひらをぎゅっと握りしめて、硬直する。

なにか、なにか言わきゃ。見開いた視界に、小さな両足が写り込んだ。細くて柔らかそうな、こどもの足。まっすぐ上に向かっていたその足がくの字に曲がると同時に、わたしの目の前には澄んだ瞳が飛び込んできた。きれいなきれいな、湖みたいな瞳だった。


「だいじょうぶ?」


何度か小さな口を開いたり閉じたりしていたこどもは、舌足らずな言葉でわたしを気遣う。じっと見上げる青い瞳。眉上で切りそろえられた金糸。整った顔立ちの、幼い男の子。まだ七つくらいだろうか。外国人かと思いきや、少し考えるようにしながらもきちんと日本語で話しかけてきた。

地面に座り込んでいるわたしの横に、寄り添うようにしてその子はしゃがみこんでいた。大きな瞳の可愛らしい顔にあまり表情は乗っていないが、心配してくれているのだろう。じっと見上げる澄んだ青い瞳の中に、惚けたようなわたしが写っていた。

どうしてわたしは、このこにあんなにも怯えていたのだろう。髪と同色のまろ眉がかわいい。


「だい、じょうぶだよ。心配してくれてありがとう」


なぜだか掠れたように引き攣る声をあげれば、男の子はこくりとひとつ頷いた。からからに乾いた喉を、唾液を飲み込んで潤す。刺すような痛みを感じて、少しだけ眉が寄った。

気持ちが落ち着いてきて、ようやく周りを見る余裕が出てきた。その余裕も、一瞬で砕け散ることになるのだけれど。

起こした体を支えるてのひらの下には、ひんやりとした岩が除く地面。辺りはぼんやり薄暗いのに、仄かな明かりが転々と瞬いている。蛍光灯とはまたちがう人工的ではない光。明滅するそれらはちかちかと輝きながら宙を漂っている。太陽の、日の光が一切感じられないのに、透けるような柔い光彩が視界を補っていた。


「こ、ここ、ここどこ?」


まるで見たことのない風景に、わたしの発した声はまるで迷子のように情けないものだった。男の子はそんなわたしの様子にきょとりと首を傾げ、大きな瞳を数度瞬かせる。青い瞳を彩るまつげまで金色だ。


「どこだとおもう?」

「え……」


質問に質問が返ってきて、思わず言葉が詰まった。問われてもう一度辺りを見渡してみても、こんな幻想的な景色に見覚えはない。と言うよりも、わたしは今の今までわたしの部屋で寝ていたはずで。どうして温かい布団が冷たい岩肌になっているのかすらも分からない。

もしかして、わたし、誰かに攫われた?それで、こんな、訳の分からないところに置き去りに?

憶測がぐるぐると頭の中を駆け巡り、さっきは安心した目の前の男の子ですら怪しく思えてしまう。そうだ、この子はどうして一人でこんなところにいるのか。お父さんは?お母さんは?そうでなくても保護者くらいいるだろう。だってこの子はまだ、小学生になるかならないかくらいのこどもだ。


「きみ、の……お父さんかお母さん、は?」


からからに乾いた喉からこぼれた声は酷く頼りなく岩肌に反響する。こどもはきょとりとした表情でわたしを見上げている。まるで言っている意味が分からないとばかりに。どことなく、表情に乏しいこどもだった。


「?おとうさんも、おかあさんもいない」

「え……ご、ごめん」

「?なんであやまるの?」


本当に不思議そうに問い返してくるものだから、逆にこっちが戸惑ってしまった。少しも寂しそうな様子も、悲しそうな様子も見えなくて。もしかして、この子はずっとひとりでここにいたのではないかと、そんな考えが湧き上がってきてしまう。


「い、いや……あ、じゃあきみの名前は?」

「なまえ……?ない」


試しに名前を聞いてみる。男の子は少し思い出すように視線を上へと投げたが、すぐに首を横に振った。

有り得ないじゃないか。ふつうに。家族と、友達と、誰かと暮らしていれば名前があるのが当然なのに。震える両手が、無意識で彼の頭へ伸びる。わたしの手が彼に触れる前に、彼はひたりとわたしを見据えて問うた。


「なまえ」

「え?」

「なまえ、なに」


中途半端な位置で止まったわたしの腕と惚けた表情は、さぞかし間抜けに写っただろうに。男の子は澄んだ青い瞳でじっとわたしを見つめていた。

なまえ。なまえ、なに。数秒考えて、やっと思い当たった。わたしのなまえを、聞かれたのだと。


「わたしは、ミコだよ」


なんとなく、なんとなく違和感を感じた。気がする。些細なものだったけれど、ちょっとした、喉に小骨がつかえているような。そんなもの。


「ミコ……ミコ、ミコ」


わたしのなまえを得た男の子は、その小さな唇で何度も確かめるように繰り返し呟いている。まるで覚えた言葉を忘れないようにするような行動に、ほわりと温かくなった気がした。無表情で、どことなく浮世離れしているけれど、素直に慕ってくれるこの子はかわいいと感じた。


「ミコ、こっち」


中途半端な位置で宙をさまよっていたわたしのてのひらを、男の子がはしりと捕まえた。少しひんやりとした小さなてのひらが、わたしの指に絡まる。誘うように小さく腕を引かれて、地面についたわたしの腰が浮く。ごつごつした地面に横たわったり座り込んでいたせいか、鈍い痛みを感じる。ああ、夢じゃないみたいだ。


「どうしたの?どこか行くの?」

「ん、こっち」


引かれる腕のままゆっくりと立ち上がる。ローファーが音を立てて足元の小石を蹴飛ばした。つま先に当たった小石は、小さな音を立てて地面を転がっていく。両足を包むローファーも、見にまとう制服も少し薄汚れていた。どこかで洗えるだろうか。

男の子はわたしの腰より少し上当たりまでしか身長がなかった。幼い子が一生懸命腕を引く仕草に、自然と頬が緩む。かわいいなあ。

ほっこりと温まる心のままに男の子を見おろしていると、足元に大きめの影がかかった。恐らく洞窟の僅かな光源を遮る影。なんだろうかと頭上を振り仰げば、そこには蝙蝠がいた。ただの蝙蝠じゃない。かなり、かなり大きい。しかもとても見覚えがある。主に画面の向こう側で。


「……ゆめ?」


頭上で群れを成してこちらを威嚇するゴルバットの群れに、思わずそう呟いたわたしを、いったい誰が責められようか。

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